きっかけ
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翔馬の部屋はお互い居ても居なくても気にならない……気まずくならない時間を過ごせる場所になっていた。
ずっとこの部屋に引きこもっていたいけど、伯父さんも伯母さんも帰らないと心配するから、門限は守る。それに、良い子でいることを自分に課した。
家のお手伝いは率先してする。学校の勉強もサボらない。とにかくお行儀良くする。決められたルールはきっちりと守る。
伯父夫婦は「気にしなくていい」「操と同じ様に過ごしてくれたらいい」と言ってくれていたが、わたしには最低限それくらいはしないと春日家に置いてもらうのが心苦しくて仕方が無かった。
だから、翔馬の家に居座っていると言っても長くて三時間程度だ。
やがて中学、高校と通学時間が長くなったので平日は殆ど行けなくなった。
それでもわたしは時間を見つけては中江家に通ってしまう。
そんな状態が数年続き高二の秋……五ヶ月ほど前のこと、その日も特に会話するでもなく翔馬の部屋で過ごして、日も落ちたしそろそろ帰ろうかと思った時に、翔馬がふと「オレ達付き合っちゃおうか」と言ったのだ。それは冗談とも取れるような軽い口調だった。
昨年の十月中旬。ちょうど操ちゃんの誕生日が過ぎたあたりだ。
四月から服飾系の専門学校に通い始めた二歳年上の操ちゃんは、髪の毛をそれまでの茶色がかった黒のセミロングからゆるふわショートボブにチェンジして髪色もオレンジ色に染めて、早々に彼氏を作っていた。
操ちゃんは熱しやすく冷めやすいのか半年の間に彼氏は次々と代わり、操ちゃんの十月の誕生日を一緒に過ごした彼氏は、わたしが知っているだけでも確か三人目の彼氏だったように思う。
そんな操ちゃんに触発されたのか、翔馬も度々彼女が欲しいとは言っていたのだ。
わたしは、もし翔馬に彼女が出来たとしたら、流石に翔馬の部屋に上がり込むなんて出来なくなって自分の居場所が無くなってしまうのではないかと内心ビクビクと怯えていたので、曖昧な相槌しか出来なかった。
そんな時に翔馬に付き合おうと言われて、一も二も無く頷いた。
恋愛なんてよく分からなかったけど、翔馬の事は好きだ。たとえそれが恋愛の好きとは違っていたとしても、いつかきっと本物になるのだと思っていた。
付き合い始めてみれば、翔馬との取り留めのないおしゃべりの時間が増えた。
お互いの学校の文化祭へ行ったり映画館に行ったり前よりも一緒に過ごしたし、クリスマスにはファーストキスもした。
キスはちょっと苦手だったけど、翔馬と一緒に過ごすようになった時間はここに居てもいいんだという安心感を与えてくれた。
順調に友人から恋人へと関係性が変わってきたと思っていた矢先に、操ちゃんとの浮気を見てしまって本当にショックだったのだ。
***
「茉莉衣はそれでうちに来たのね」
初等部の頃からもう五年以上の付き合いになる友達の華凛梛が、興味深そうに瞳を輝かせながら話を聞いてくれた。
腰まで届きそうな長い髪を両サイドで編み込んでハーフアップにして、シンプルながらも上質なワンピースを着ている、いかにもお嬢様というスタイルの華凛梛は、全国にいくつもある大病院を経営している治宮一族の直系で、わたし達が通う燿誠学院の中でもトップクラスのセレブと言えるだろう。
おまけに、テストは常に上位で運動神経抜群となれば、さぞかし人気者だろうと思いきや、そのキリッとした吊り目はまさしく内面の表れなのかズケズケした物言いと相まって、本人にそのつもりは無くても威圧感を振り撒いている。
そのため物怖じする人も多く、やや遠巻きに見られているのが実状だったりする。
天才肌の華凛梛は、自分がやすやすと出来ることが、なぜみんな出来ないのか理解出来ず、つい簡単に「さっさとしてくれる?」とか急かしてしまうので、多くの人に苦手意識を持たれてしまっていた。
それでも華凛梛のご機嫌伺いをしてくる人もいたけど「追従するだけの腰巾着なんていらないわ」と蹴散らしている。
わたしも初等部の頃は、華凛梛の事を苦手だと感じていた一人だったけど、一ヶ月だけ公立小学校へ通った後、苗字が変わって戻ってきた時にクラスメイト達も距離感を掴み損ねていた中、一ミリも態度が変わらなかったのは彼女だけだった。
当時のわたしには、歯に衣着せぬ華凛梛の物言いが小気味よく感じて一緒にいるようになったのだ。
お陰で優秀な華凛梛に引っ張られてわたしの成績もそれなりに上位をキープ出来ている。
あらかじめ華凛梛には電話で『家出したから泊めて』と伝えていたけど、家に来たのは初めてで想像以上の豪邸に驚いてしまった。
玄関から部屋までを家政婦さんが案内してくれるとか人生で初めての経験だ。そもそも専属で家政婦が住み込んでいるという状況をドラマ以外で初めて目にした。
お高そうな壺やら絵画やらが飾られて廊下を歩くだけでもドキドキしてしまう。
学校から帰って靴を脱ぐ間も無く家を飛び出して制服のままだったのが結果的に良かったのかもしれない。
スーパーのワゴンセールで買った既製服ではここの敷居は跨げなかっただろう。
燿誠学院の制服が持っている服の中で一番フォーマルな服だった。
「それならまず合コンかしら」
目をキラキラさせた華凛梛が愉しそうにこちらを見てくる。
華凛梛は一見、俗世の事なんて何も知りませんといった風情のお嬢様だが、口を開けば意外と俗物だったりする。
特に他人の恋愛話は大好物だ。
「それは大丈夫」
華凛梛の視線を遮るように、わたしは鞄から取り出したゲームソフトを二人の間に差し込んだ。
パッケージには『ツインクル・アイランド〜誓いは妖精樹の下で〜』というタイトルが書かれている。左上にはオレンジと黒のアライグマをモチーフにしたマークがあった。
翔馬に宣言した通りにいざ浮気しようと思っても、学校の男友達にお願いするなんてわたしにはとてもじゃないけど出来そうに無かった。
だからといって、見知らぬ人に声を掛ける……いわゆるナンパなんてもっと難易度が高い。
どう頑張ってもリアルで浮気は無理だと思ったから、悩んだ末に捻り出した答えは二次元で浮気する事だった。
どうせならとびっきり格好良い王子様にチヤホヤしてもらおう、なんて思ってファンタジー物を選んだのだ。
一度思い付くと本当にそれが一番良い案のように思えて、華凛梛の家に来るまでになけなしのお小遣いをはたいて電気屋のオモチャコーナーで、直感で気に入ったものを購入してきた。
実は華凛梛はこう見えて、ラノベとか漫画とかゲームとかが好きだから、それならばゲーム機も持っているだろうと期待している。
「乙女ゲームで浮気?」
「とりあえずイケメンにチヤホヤされて癒やされようと思ったんだけど?」
お互い相手の言っている意味が分からず、首を傾げて見つめ合う。
「乙女ゲームってどっちかと言うと、こっちがチヤホヤして相手から告白してもらえるようにするゲームよ?」
「そうなの?」
「まぁ、関係性が進むとデレデレはしてくれるかもね」
だけどデレデレされても告白されるとは限らないらしい。なんだか複雑だ。
「あんなにデレデレしてたのに告白してこないなんて、悔しいじゃない」
華凛梛はそう言うけど、それもいまいちピンと来ない。
チヤホヤでもデレデレでも……違いはあまりよく分からないけど、そもそも浮気が目的なのだからこっちがチヤホヤでも変わらないんじゃないかと思った。
だから「それでもいい」と頷いた。
「まぁ、あたしはこのゲームをプレイしたこと無いからよく知らないし、チヤホヤしてくる可能性もあるわね。……でも」
華凛梛は長い髪を無造作に払うとその手を顎にあてて、わざとらしく大きな溜め息を一つ吐いた。
「ラクーンは持ってないわ」