朝の支度
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目を閉じて祈りを捧げていたが、その笑みの気配に顔を上げ辺りを見回す。
―――ただ動かぬはずの女神レウナの石像が何故か微笑んでいる気がした。
(…………見間違いですわ)
瞬きの後、目を凝らしてみたけれど、大理石で出来た像はいつもの通りそこに佇んでいた。
太陽はすっかり姿を現し、赤味を帯びた光が白に変わっている。
サラリと落ちる自分の髪に、早く帰って編み込んでもらわなければならないと思う。
今日は新節式で、新入生と卒業生以外は自由参加だけれど、わたくしは入学以来毎年欠かさず参加してきた。
もちろん、今年も参加を予定しているので、のんびりしていたら遅刻してしまう。
誰かの気配を感じたのは気の所為だと気持ちを切り替え、礼拝堂を後にした。
王都リンナの最東端にある礼拝堂から邸宅への移動は馬車を使う。
祭祀の一族であるピュハマー邸は神殿に一番近い貴族街の東にあるからそう遠くは無い。
ただハルティア学園は神殿とは真反対の最西端にあるので少し距離がある。いつもより少し遅くなってしまった今日は急がねばならない。
お祈りの際には神官服を着ているので着替えと髪結いが必要だった。
学生の証になるものは二つ。ハルティアグリーンと言われる深緑色と、妖精樹の淡い金色の葉だ。
わたくしの入学試験は四年前の十歳の時で、金葉はその時から枯れることも欠けることもなく保ち続けている。
熟れるように金色になればそれが卒業可能な証になり、刻紋の儀式を行えば胎内に吸収されて左手に浮かび上がる葉紋となる。
この葉が熟れること無く消えたなら、それは貴族になる資格なしとされた時だ。
もう一つの証、ハルティアグリーンには髪を飾るリボンを選んだ。
横髪を編み込んで最後は後髪も合わせて一本の三つ編みを作りそれを巻いて纏めたところにリボンを結んでいる。
そのまま一日過ごしても頑固な髪は解いた途端にまっすぐで癖のない髪に戻ってしまう。
単純に結んだだけだと髪紐も滑ってすぐに解けてしまうから、こうしてきっちりと結わえるか下ろしているかしかない。
マリーの淡紫色の癖毛なら、一つに纏めるだけでも問題ないのだろう。
彼女の髪はまるでその性格を表しているかのようにふわふわと可愛らしく、素直そうだった。
グリーン系の瞳をしている彼女が妖精達を引き連れ歌っていた時には、光の加減なのか何故か瞳が金色に変わっていた。
金の瞳は妖精にしかないものだった。妖精王の血筋で加護を受けているサーリストの王族やマリーの連れている双子の妖精も金色の瞳をしている。
妖精達のパレードの中にいた時マリーも金色を帯びていた。瞳の色が変わるほど、妖精達に愛されたのだろうか……。
あの時ルートヴィヒが言った通り本当に精界に連れて行かれてしまうのではないかと思った。
わたくしは契約妖精に憧れていたけれど、あそこまで妖精に愛されるのは恐ろしい。
精界に連れて行かれるということは、人界との決別を意味する。
妖精達が連れて行った人間が帰って来る事は少なく、帰って来ても精界での記憶は無くなっており元の性格から全く変わってしまうらしい。
外見は変わらず言動が変わってしまうので、実質別人だと言えるだろう。
状態異常を解除する神聖魔法でも治療出来ない。
わたくしは精界から戻ってきた人に会ったことはないけれど、神殿の高位神官の話ではそもそも状態異常と感知出来ないようだ。
たとえ神のお声が聴こえるほどの大神官だとしてもそれは同じだ。
今の世では、神のお声を聴くこともほとんど奇跡に等しいことだけど、稀に聴いたという人が現れる。
現在の祀王であるレオナルドも何度か神託を賜ったことがあった。
ただレオナルドの話では、お声を聴くというよりも天啓を得るという感覚らしい。
だから“神のお声を聴いた”というよりも“神の意志に触れた”という方が近いと言っていた。
どちらにせよ一神官に過ぎないわたくしにはよく分からない感覚だ。
それよりも妖精達があのようなパレードをすることは聞いたこともなかったので、神のお声を聴く以上に奇跡かもしれなかった。
マリーが歌っていた最北の国の言葉は既に失われた国の言葉だ。何百年も前に滅びてその跡が今どうなっているのかは伝わっていない。最北の国と最南のサーリスト王国では距離がかけ離れているから仕方がないのだろう。
妖精王の加護を受けているサーリストとは異なり、大陸では妖精は厭われている。
昔の話だが、大陸で最も大きな国である帝国は妖精を虐殺していた時代があるし、次に大きな皇国も妖精を契約ではなく隷属させて無理矢理に魔法を使わせていた歴史がある。
妖精との関係が悪くは無かった最北の国はおそらく帝国に飲み込まれたのではないかと推察している。そうして、滅亡したり吸収したりした国の言語のほとんどは失われてしまった。
今の大陸は、東側を粗方併合し侵攻が落ち着いた帝国と妖精の奴隷制度が禁止になった西側の皇国で、妖精達が公に迫害される事は無くなったが、大陸の人々と妖精達の溝は未だ完全には無くなってはいない。
マリー自身は伝聞で本当に歌詞の意味が分かっているわけでは無い様子だったが、その歌に歌詞を付け足した父親に話を聞くことが出来れば、そんな失われた言語の翻訳が出来るようになるかもしれない。
サーリスト王国が建国されるより遥か以前に滅びてしまった国の書物が、実は王城の宝物庫に眠っているのだ。まだ四人で遊んでいた頃に入り込んだ宝物庫の中、いつか読んでみたいとミカルが言っていた。
(新節式の後でマリーに父親の事を尋ねてみようかしら……)
わたくしが物思いに耽っている間にも、侍女達が忙しく手を動かして服と髪が整えられた。
神殿は東側の高台にあり、そこから西……正確には西南西の方角にハルティア学園がある。
道は緩やかな下り坂になっていて、わたくしは四頭立ての馬車で通っている。
同じく学園に通うレオナルドが一緒の時もあるが、彼は祀王の役割が優先されるから朝から行く事も少ない。
そのくせ、一つ年上のわたくしと同時期の刻紋の儀式を目指していて確実に単位を取得していっている。
とはいえ、将来の国母と言われているわたくしのように上位の成績を求められているわけでは無いので、わたくしが王妃様から付けられた家庭教師に勉強を教わっている間にも、祀王の執務をしている彼の成績は及第点さえ取れればいいという最低限のものだ。
ずっと王宮から離れられないわたくしと違ってお役目から解放される弟が羨ましくて仕方ない。
出来ることならわたくしが代わりにずっと神殿で男神トラバイスタと女神レウナに祈りを捧げて暮らしていきたい。
あるいは刻紋の儀式を受けなければ、国母にならない道もあるのかもしれないけれど、ピュハマーの姓を失って神殿に居座れる程わたくしの肝は据わっていない。
それにピュハマーで無くなれば、あのどこよりも神を感じる青い光の礼拝堂には入れなくなってしまう。
あそこは通常の礼拝堂よりさらに奥にある厳重に守られた聖域なのだ。
(葉紋を得ずに生涯ずっと未婚のまま奥の礼拝堂で祈りを捧げて暮らしたいなんて言ったら、蜂の巣をつついたような大騒ぎになるんでしょうね)
絶対叶わないに決まっている浅はかな願望だ。でもそれが叶えば、わたくしはもう涙に悩まされることは無くなるだろう。
馬車は学園の門を潜り、指定された馬車の乗降場に停まる。
そこに降り立ったわたくしは見慣れた場所ではあるけれど、何気なく学舎を見上げるとくらりと立ち眩みを感じた。
『これってハルティア学園?!』
それから、脳に直接響くような声が聴こえる…………。