珈琲休符
「~もう一つ、私の長所は観察眼です」
長身の男――確か名前は「楠京茶」だったか――はそう高らかに宣言して見せた。
「ではまず、高木さん、ご結婚されてますよね?」
高木、知らない名だ。と思ったら向かいあって座る三人の面接官のうち右側の男の肩がびくっとはねた。
ほう、あれが高木か。なんともやる気のないツラだ。まったく、こんな奴らにわたしらの将来を決められるのか。
「驚かせてしまいましたね、すみません。待合室でお名前を呼ばれているのをお聞きしたので。それにその薬指についた跡は指輪のものでしょう?ところで隣の水田さんは朝、駅まで走りましたね?それに鈴柳さん、あなたは右目の視力が悪いはずだ」
今度はわたしの肩がはねた。どうして。咄嗟に出そうとした声は乾いた唇に阻まれて音にならなかった。わたしはただ彼の方を見て目で問いかけた。視界の端に映った高木の顔は、驚きに満ちて傑作のマヌケ面だった。きっとわたしもだ。マヌケ面をしている。
「よくわかりましたね。理由をお聞きしても?」
正面真ん中、即ちわたしの正面に座る面接官――ドン・鈴柳が問う。わたしたちと違って冷静だ。流石ドンだ。勿論ドンなどという名前ではないが、その若さと頭ヨサソーな見た目から私が勝手につけた。話を戻そう。それから楠はわたしの反応をかみしめるように薄い唇で弧を描いてドンの問いに答えた。
「ええ。まず水田さんの背中側のスカートからワイシャツが飛び出ているのを見ました。他にも、耳にかかった髪が少し解けている。それに待合室ではしきりに靴を履き直していましたから。もしかしたら、って。鈴柳さんは先ほど小宮さんが学生時代からのスケッチを紹介されているときに顔の右側が前に出ていましたから。往々にして効き目というものはそうでない側より視力が落ちるものです」
「なるほど。納得しました」
「とまあ、これが私の二つ目の長所、観察眼です。以上です、ありがとうございました」
◇
面接が終わって、わたしたちは面接室へ戻る。その途中で、わたしはなんとなく、楠を呼び止めた。
「楠さん、なんで、走ったコト分かったんですか?まさか本当にあれだけで?」
後になって思えば、呼び止めなければよかった。飄々とした後姿がわたしに振り向く。
「ふふっ、ごめんなさいね。本当の決め手は汗のにおいなんです」
「なっ……!」
「冗談です」
「なっ……!」
途端に恥ずかしくなって、きっと顔がかんかんになった。それこそ今朝の電車の中よりも。
恥に身を悶えていると、彼はぐい、とわたしに近づいてきた。
「『眼』がいいんです、僕」
眼。め。
いっそう身を近づけて、息が触れ合うほどの距離でそう囁いた。彼の息が近い。彼の体温が近い。彼の眼が近い。
驚いたわたしは反射的に背を反らして、目はぎゅるんぎゅるんとのたうち回った。
ふと視界に指が映る。細くて長い彼の指。程よい長さで揃えられた爪。自然と視線が追う。乳白色の指先はゆっくりと珈琲色の瞳を指さした。引きこまれるようにわたしも彼の眼を見る。
瞳に吸い込まれる、とはこのことか。深い珈琲色の眼。何頁にも線を綴る薄茶の虹彩。混じりなくすべてを飲み込む黒の瞳孔。
目をそらせない。彼の瞳が私を映す。私の瞳もまた、彼を映す。虹彩が私に伸びる。長い睫毛も。私の瞳に潜り込んで、眼球を絡めとる。黒い瞳孔は変わらず私を映し続けている。それは熱だ。瞳の熱が私の瞳を溶かしている。ぐずぐずと視界が溶けていく。
ああ、これは、いけない。私は、どうしようもなく、彼の瞳に魅入られている。
ぁ……
思わず声が漏れる。その声も珈琲色の瞳は吸い込んだ。何も聞こえず、何も動かず。時間すら飲み込んでしまったように長い時間が流れた気がした。
ぱちり。
つかの間のカルマン渦のような非現実は、瞬きによって終わりを迎えた。はっとして息ができていないことに気が付いた。胸が動悸する。息を整え現実に戻ってくる。…いやまぁ最初から現実ですケドね。
つまらない冗談を言って前を向くと、まるで最初から動いていないような距離に彼が立っていた。ほれみろ、最初から現実だ。そのはずだ。気まずいな。話題、なんかないか。
「す、すごいですね、楠さん。あれならきっと内定ですね、おめでとうございます」
すると、楠は予想と違ってばつの悪そうな顔をした。それからすこし悩んで、ちょいちょい、と手で呼んだ。なんだろう。さっき私の汗とか言われた手前近づきたくないなあなんて内心思いつつ、体は素直に彼のもとへと足を運んでいた。
「実は僕、もう働いているんです。喫茶店。滝沢町の。今日はまあ、暇つぶしです」
オフレコですよ、指を口に添えて。不思議な人だ。こういう人もいるのか。私は一つ内定とるのに苦労しているというのに。腹立ってきたな。うっすい唇しやがって。眼はまあ、……綺麗だったケド。
「ごめんごめん、なら今度うちにおいでよ、奢るからさ。ほら、これポイントカード、住所も書いてある」
「……私まだ何もいってないんですが」
「眼がいいのさ」
不機嫌なのを察したのか、喫茶店のポイントカードをいただいてしまった。
「そろそろ戻ろう。それでは、またお店で会えることを楽しみにしてますね」
彼は振り返り、待合室へと歩いて行った。私も慌てて歩き出す。ポイントカードを胸のポケットに入れる。
ポイントカードからは仄かに、珈琲の匂いがした。