その一歩は上がるのか下がるのか-3
魔女に告げられた言葉によって俺の心はボロボロだった。
あの時に自覚させられたコンプレックス。
俺は彼女よりも優位に立ちたいというだけの感情で動いていると指摘されたのだ。
その言葉に俺は反論ができなかった。
それによって熱に浮かされていたような頭は冷めきり、頭の奥で何度も何度も俺は心の内に問いかけた。
一体、何故婚約破棄などしようと思ったのか。
そんな状態で軍事訓練をすればどうなるかは火を見るより明らか。
俺は普段ならば難なく回避できるであろう一撃をまともに受け、意識を失い保健室に運ばれたのだった。
「うっ……」
「あら。目が覚めたのね」
ベッドに寝かされていた俺の横には件の婚約者が居た。
傍目から見ても美しいと言って良いだろう顔。
流れるような栗色の髪。
甲斐甲斐しく俺の世話を焼くその姿をいつから疎ましく思うようになっていたのだろう。
不安そうな表情から一変、いつもの勝ち気そうな顔になった彼女が俺の額に乗っていた冷えたタオルを取り替えてくれる。
「あなたらしくないわね。軍事訓練の時だけは意気揚々としているっていうのに」
「ふんっ……」
「あなたが訓練で倒されて意識を失ったと聞いた時には本当に驚いちゃったわ。最近はこういう事、本当に少なくなったものね」
また弱みを見せてしまった。
俺はこんな姿を彼女に何度見られているのだろうか。
屈辱だ。
以前までならばただただそう思っていただろう。
だが、今の俺は冷静にその姿を見る事ができた。
柔和な顔で俺の額の手拭いを交換してくれる彼女の顔には心配している色が見て取れる。
傍から見てもその姿に俺を見下すような物は無い。
俺を非難ばかりしてくるような姿はどこにもない。
だというのに、俺はこのような事が屈辱に感じていた。
「でも、大きな怪我とかじゃなくて安心したわ。昔はよく傷だらけになってたわよね。最近は体も大きくなって強くなっちゃったから……ふふっ、あなたの看病するなんていつ振りかしら、少しだけ懐かしいわね」
彼女の言葉に羞恥の記憶が蘇る。
俺は元々は体が小さくて弱くて、訓練で倒される事ばかりだった。
地面を転がされて土の味を知った。
周囲から才能が無いなどと言われた事も幾度とある。
それでも俺は努力をした。
だから、生傷が絶えなかった。
その度に彼女が俺の傷の手当をしてくれていた。
ボロボロにされた俺を心配してくれる彼女の視線が嫌で堪らなかった。
悔しくて悔しくて俺はとにかく体を鍛えた。
成長とともに大きく育った体。
訓練でもエクサス先輩のような本当の強者以外には負ける事はなくなった。
それとともに彼女に看病される事もなくなった。
「……油断しただけだよ」
「そうね、あなたが強くなった事はよく知ってるわ。でも、それでも怪我はするんだから気をつけてよね。私に心配されないように強くなるんでしょ」
その言葉にハッとしてしまう。
原初の記憶が蘇る。
幼い日、何を目標として俺は努力をしていたのかを思い出す。
俺は何のために体を鍛えていたのか。
何を思って厳しい訓練を耐えていたのか。
彼女を見返すためなんかじゃない、彼女を見下すためなんかじゃない。
それは彼女に余計な心配をかけないためではなかったか。
彼女に相応しい男になるためじゃなかったか。
「まぁ強くなったらなったで違う心配も出てきちゃうけどね。ほら、あなたが前に怪我させた子なんて妾腹とは言っても公爵お気に入りの実子だったんだから……何か失礼があったらって顔が青ざめたわよ……本人は庶民出で気の良い子だったから良かったけど」
俺は何を勘違いしていたのだろう。
彼女は俺の事を立ててくれない?
男の事なんて理解していない?
そんな女性が俺の事をこんなにも考えてくれているのか?
魔女の言葉の正しさを今更ながらに理解する。
気づいてしまったらこれまでの俺の馬鹿な考えが押し寄せてくる。
全てが酷い裏切りだ。
行動に移していないだけで罪は無くならない。
何よりも俺自身が自分を許せない。
涙が込み上げてくるほどに俺は後悔する事しかできない。
「俺は……俺は……」
情けなくて涙が出る。
当たり前に享受していた彼女の優しさ。
それがどれだけ尊い物だったかをやっとわかった。
自分のちっぽけなプライドを満たすためだけにそれを投げ捨てようとしていたなど、今更ながらにぞっとしてしまう。
「ちょっと、どうしたの?打ちどころ悪かったんじゃないの?」
「俺が……俺みたいなバカの婚約者なんて……嫌じゃない?」
魔女の最後の言葉が蘇る。
彼女は俺と一緒にならないほうが幸せになると思えた。
やはり婚約というのは理不尽な物というのは間違いではない。
俺みたいな男に束縛されるなんて不幸でしかないかもしれない。
「あなたがバカなのはずっと前から知ってるわよ。でも、バカなだけじゃない事だって知ってるわ。最近なんて憧れの先輩の真似ばっかりして……あなたにはあなたの良い所があるから気にしなくて良いのにね」
ニコニコと笑顔を浮かべて俺の良い所を指折り数える彼女。
美味しそうにご飯を食べる。
くだらない話で笑わせてくる。
好物を差し入れしてくれる。
どれだけ負けても挫けない。
そのどれもが他愛も無い事だった。
俺だってそうだったはずなのだ。
彼女の良い所をいっぱい知っているはずだった。
だって俺達は婚約者同士なのだから。
「ごめん……ぐすっ……本当に……ごめん……俺……情けない……」
「ちょっとちょっと!本当にどうしたのよ!」
泣きじゃくる俺を見る彼女は困惑頻りだ。
何故泣いているのか彼女はわかっていない。
俺が酷い裏切りをしようとしていた事を彼女は知らない。
落ち着いたら話をしなければならないだろう。
それによって、俺は本当に愛想を尽かされるかもしれない。
それでもだ。
当たり前すぎて忘れていた事に俺は気づく事ができた。
一歩目を踏み出す事はとても大変な事で素晴らしい事だと誰かが言っていた。
それは本当の事だと思う。
迷っている暇があったら、とりあえず行動してみるというのも間違いでは無いはずだ。
しかし、それと同時に踏み止まる事もとても重要な事だと俺は思い知った。
自分一人では見えていない物があり、人の話を聞いてこそわかる事がある。
俺は何も考えずに奈落へと落ちる事となる一歩目を踏み出すところであった。
崖下へと転落するであろう一歩目を俺はギリギリで踏み止まる事ができたのだ。
俺の婚約者は誰よりも俺の事を考えてくれてる女の子だった。
身近すぎてわからなくなっていた幸せが確かにそこにはあった。
落ちる前に踏みとどまる話を書こうと思った話でした。