逃げた魚と逃した漁師-2
「まず、私達は確かに許嫁というか婚約関係にありますが、これはどの程度の拘束力があるものでしょうか?」
図書室の一角。
周囲に居る生徒たちも何が始まったのかと訝しげにしている。
そんな事はお構いなしに私の目の前に座った筋骨隆々の美男子が待ってましたと言わんばかり話し始める。
「うむ!それが俺も気になって調べたのだ!そうしたところそこまで強い拘束力があるわけではないと言う事がわかってな!それならばと今回話を持ってきたのだ!」
「そうなのですか」
「婚約というのは言うならば婚姻の手前。婚姻が両者の契約とするのであれば、その契約をする前段階という状況……だそうだぞ!」
なるほど、と頷く。
確かに私達は婚約をしていたが婚姻をしていたわけではない。
婚姻、つまりは結婚をしていたのであれば事は大きくなる。
離婚に関しては財産をどうするのかであったり、子供が居れば親権がどうなるのかであったり、離婚の責任はどちらにあるのかであったりとクリアする問題は多岐に渡るだろう。
だが、私達はそうではない。
あくまで婚約。
言うならば商品を予約していただけだ。
まだ購入していないのだから予約をキャンセルする事は不可能ではない。
「そうは言っても私達の婚約は両家が十数年前から決めていた物です。解消します!で通る物なのでしょうか?」
「そこら辺が俺にはわからん!だから、お前なら知っているかもしれないと話を持ってきたのだ!」
ため息をつき、眉を寄せて彼を睨む。
この人は細かい部分は私に丸投げしようと思ってこの話をしてきたようだ。
自分が得意ではない事を他人に任せることができるのも人の上に立つ物の資質だろうが、やはりこの人は苦手だ。
私達の婚約は所謂、政略結婚的な側面もあった。
両家の繋がりを強め、それによって家の力を高める。
そう言った意図があって結ばれた婚約関係なのだから、それを解消するという事の影響は本人達だけで済む話ではないかもしれない。
「ご両親にお話は?」
「……まだだ……話を進めるにはまずお前に話をするべきだと思ったのだ」
「それはとても正しい判断です。先に話をしてくれたからこそ二人で考えられますから。当事者二人が納得をしているのと片方が言っているだけの状況ではご両親の反応も違ってくるでしょう」
そう言いつつ、私は図書室の一角から法律関係の書物を引っ張り出してくる。
私達が目指すゴールにたどり着くには一体何が必要で何が問題なのか。
それをまず知らなければならないからだ。
分厚い本から該当の箇所を探して流し読みをする。
あくまで簡単にで良いのだ。
本当に細かい話になれば、それは専門家や両親を交えた話し合いの場を設ける必要がある事は考えなくてもわかる。
「俺も何か手伝いたいのだが……」
「適材適所という奴です。本を読むと頭が痛くなるのでしょう?あなたのファンの娘達から聞いた事がありますよ」
その言葉に彼が苦い顔をする。
彼は体を動かすことが好きだが残念な事に文武両道とは行かなかった。
すべてを感覚で賄っているので勉強や書物を読んだりするのはとにかく苦手らしい。
そんな彼の婚約者が四六時中本を読んでいる私なのだから、色々なやっかみを受けるのは必然だった。
「そうは言うが……言い出した俺が何もしないわけには……」
「言い出した事はとても大きな仕事ですよ。何事もですが零を一にするというのは想像以上の難しさがあります。私も考えた事はありましたよ。このままあなたと流されるままに結婚して良いのかと。だけど私は最初の一歩を踏み出す事はできませんでした。しかし、あなたは婚約破棄という一歩目を踏み出した。零を一にしたんです。で、あれば一を百にするのが私の役割ということです」
「むぅ……お前の言う事は難しい……」
「わかりやすく言えば、黙って座って居て下さいという事です」
彼の中で納得があったのかそれ以降は大人しくなった。
手持ち無沙汰なのか何度も自分の手首を掴んでは揉みほぐすようにしている。
簡単なストレッチなのか?それとも癖なのだろうか?
時折私を見てはすぐに視線を逸らす。
かと思えば、調べ物のために本を手繰っている私をじっと見つめて来たりもする。
正直、落ち着かない。
「もう少し待って下さい。あと、婦女子を不躾に見るのは失礼ですよ」
「……すまんっ!どうにも落ち着かなくてな!」
落ち着かないのはこちらのほうだと言いたいが、ぐっと堪える。
私に指摘されたからか、彼は視線を窓のほうへと向けた。
外は明るく、図書室から見える校庭では真面目に何かの訓練をしている者や、遊んでいるだけなのか笑い転げている者など色々な人が見える。
私がいつもここから見ていた風景だ。
その風景をいつもは見られる側だったであろう彼が見ている。
不思議な光景だった。
こんな話し合いが無ければ恐らく彼は校庭で格闘術の訓練にでも汗を流していただろうに。
「う~ん……軽く目を通した限りですけど、やはり両親の合意が必要ですね……私達は未成年ですから」
「それはそうか……両親は納得してくれるだろうか?」
私達の家は基本的に友好な関係を結んでいる。
お互いがお互いの家を必要としている。
一蓮托生とまでは行かないが同じ船に乗っているのは間違いがない。
それをさらに強化しようとするための婚約だったわけだが、これによって両家の関係が拗れてしまう可能性はある。
ただ、そこまで心配はしていない。
「私達が合意してますし、家の者だって私達の相性があまり良くない事くらいはわかってると思いますから大丈夫だとは思います」
読書を好み、計画を立てて動き、一人で黙々と作業する事を得意とし、行動する時にリスクとリターンを考える私。
運動を好み、感情で動き、多くの人を引き連れるに相応しくそれを苦と思っていない、理屈ではなく自身の直感を信じて動く彼。
そして、双方ともにお互いの考えや好みを理解できない。
水と油だ。
こんな二人が一緒になって大丈夫なのだろうかという不安は両家ともにあったはずだ。
だったら、どう育つかわからない子供の内に婚約なんてするなという話なのだが。
両家の関係性としては婚約が無くなるというのはあまり良い事ではない。
何かしらの問題が出てもおかしく無い状況だが、悪い要素ばかりではなかった。
「私達はお互いの事を婚約者だと認識はしていましたけど、お互いにウマが合わない事はわかっていましたから特に関わろうとしていませんでした。これが良い方向に作用しそうです」
「どういう事だ?」
「お互いに努力をしていないという事です」
私達はお互いに避けあっていった。
最低限しか関わろうとしていなかった。
幼い頃の想い出と人づてに知った人となりや普段の生活の範囲から、自分とは違う生き物だと思っていたからだ。
だから、私達は事務的な話や両家の連絡をするなど、言ってしまえば世間的な立場でしか接したことがなかった。
歩み寄る努力を一切していなかった。
「私達はお互いのために何かをしたという事はありません。例えばプレゼントを贈ったとか、二人で何か共同して作ったものがあるとか、そういった事がありません」
「うむ!そうだな、言うなれば今日が私達の初めての共同作業だ!」
「何ともおかしな話ですが、そのとおりです。金銭や物品。そして精神的にも影響がありませんしコストも支払っていません。これは婚約を解消する際のハードルが下がると言ってもいいでしょう」
おぉ!と彼が唸り声を上げる。
私達が婚約を解消したところで何一つとして影響が出る事がない。
ならば、問題が無さそうではあるが事はそう簡単には行かない。
「ただし……当事者同士ではですが」
婚約は私達だけの話ではなく両家に関わる事柄だ。
話が二人で完結する出来事ならば、これで終わりだったがこの婚姻には実家も絡んでくる。
ここだけは私達が二人で話し合ったところでどうにもならないし、どうなるかわからない部分だ。
「今回の婚約解消はあなたが言い出した事になりますから、ウチの家からもしかしたら賠償を求められる可能性があります。勿論、私からもそういう事はしないように働きかけはしますが、どうなるかはわかりませんね」
「むぅ……!」
「私達がいずれ婚姻を結ぶという前提で動いていた何某かが両家にあれば、それが頓挫してしまう可能性があります。そうすればそのために支払った諸々の補填を考えたりしなければならなくなるという事はあるかもしれません」
私の言葉に彼が難しい顔をして唸る。
記憶を辿り、そういった動きがあったかどうかを思い出そうとしているのだろう。
できる事ならば実家に迷惑はかけたくないと思っているのがその姿からわかる。
かく言う私も自分の中の記憶を総ざらいしてみるが、特に思い当たる節はなかった。
私達に知らせずに水面下で動いている物がある可能性はあるが、それはここでいくら考えてもわからない事だ。
「まぁ、あまり心配をしなくても良いと思います。何度も言いますが私も納得していますし、何よりも私達が婚約者じゃなくなったとしても実家同士が繋がりを絶たなければいけないという事ではありませんから」
婚約者でなければ成り立たない事というのは少ないと思う。
それこそ結婚パーティーの準備をこんな前から始めてしまっていたりすれば、それは無駄になってしまうわけだが流石にそれはないだろう。
だとすれば、私達の婚約が無くなったとしても両家が今までのように仲良くすればいいだけの話だ。
「なんとかなりそうか……?」
「そうですね、希望的観測になるかもしれませんが私達のせいで実家の関係が悪くなる事は無いでしょう」
家が絡む事とはいえ、基本的にはこれは当事者同士の話だ。
そして私達の婚約破棄は一方的な物ではなく両者合意のすえの結論。
それだというのに常識外れの賠償を求めて話を拗らせるメリットは私の実家にもありはしないはずだ。
「ちなみに今回のお話は恋人ができたからですか?」
「な……っ!ち……違う!そういう事ではない!が……無関係というわけではなく……単純に婚約をしている状態では本当に愛する人ができた時に困ってしまうと思ったのだ!」
「不貞があったわけではないと……ならば尚更問題は無さそうです」
彼は感情で動くからこそ素直で裏表がない。
私という婚約者が居る限りはそういう感情を他に持つ事ができないと思ったのだろう。
そして、私と一緒になるという未来も想像ができなかった。
ならば、早い内に行動をしたほうが良い。
その行動力は素直に称賛ができる彼の美徳だ。
「今、調べる事ができるのはこの程度でしょうか。家に戻ったら私も両親へと話をしますので、そちらも話を通しておいてください。後日、両家で集まって正式な話し合いをしましょう」
「そうか……俺は勢いのままに動くことしかできなかったが、やはりお前は俺とは違うな!幼い頃のように罵られるかと思っていたが、お前に話をしに来て良かったぞ!」
そう言った彼の声は大きく、静かな図書館に響く。
多数の女子を魅了する自信に満ち溢れたその態度。
私からすれば根拠のない自信に溢れ、感情で先走る事ばかりに見えるこの人が色々な人に好かれ人望がある事を少しだけ理解できた。
暑苦しいとは思いましたが。