逃げた魚と逃した漁師-1
私には婚約者が居る。
利害が一致した二つの家による当事者が物心付く前に決められた婚約だ。
私の家は中々に大きな商家でありそこら辺の貴族には負けないくらいの立場を確立していた。
しかし、商売において色々な便宜を図ってくれる貴族の後ろ盾は必要、どれだけ強くても平民は平民だからだ。
相手の大貴族の家は歴史も古く、血筋も確かなもので王家との繋がりもある。
しかし、貴い生まれだとしても先立つものは必要で、色々な力を使うためには私の実家の資金力が必要。
そんな両家は持ちつ持たれつでやってきていたわけだが、そんな折、二つの家に同年代の子供が生まれる。
女子は商家、男子は貴族。
これ幸いにと二つの家は子供同士を婚約させる事とする。
「リフィル。お前との婚約を解消したい」
図書室で静かに本を読んでいた私。
リフィル・ラインズの前に立ち、見下ろしながらそう宣言したのはその婚約者だ。
名前をエクサス・カリニオン。
大きく鍛えられた体、いつでも自信に満ち溢れている瞳、そしてそれらに相応しい高貴な生まれ。
感情のままに猪突猛進するが不思議とその行動が失敗した事はない。
整った顔立ちに女子たちは黄色い悲鳴を上げ、豪快に魔獣を蹴散らす姿に男子たちが憧れる。
どこでだって人気者でいつでも彼の元には人が集まってくる、そんな人間。
婚約者であるが私には理解できない人間で、はっきり言ってとても苦手だ。
「その……本気……ですか?」
対して私は地味な女だ。
大きな商家の生まれであり、それなりに裕福な暮らしをしているとはいえ所詮は平民。
生来持っている気質が彼とは違う。
更に嗜好も違いすぎる。
私は本を読むのが好きだし、一人で過ごす静かな時間が好きだ。
行動する時には色々な事を考えて動くし、何をするにしてもリスク管理は重要だと思っている。
見た目だって陰気とは自分で思った事はないが、センスの無い暗い女だと陰口を叩かれた事がある事を知っている。
ちなみに陰口を言っていたのは彼に想いを寄せる女の子達だ。
彼女たちにとって私はこの人の婚約者に相応しくはないと思われていたのだろう。
実際、相応しくないのかもしれないが。
「本気だ!理由はお前もわかっているとは思うが……お前と一緒になったとしても幸せにはなれるとは思えん!」
彼の言う事は正しい。
自分でも彼と私がいずれ結婚するという姿が想像できなかったし、それで自分が幸せになれるとも思えていなかった。
そもそも私達はお互いの事が苦手だ。
幼い頃に彼に無理矢理に外での遊びに付き合わされてお気に入りのドレスを台無しにしてしまってから、私は彼の事が苦手だ。
彼は彼でその行いに対して大人を巻き込み理詰めで糾弾した私に対して苦手意識を持ってしまったようで、それ以来お互いに近づこうとしていない。
幼少時の記憶というのはそれがどれだけ小さい事であっても大きな傷を残す。
だから、婚約を解消するという衝撃の宣言をされてもそこまでの動揺も無いのはそのためだ。
とは言え、不特定多数が居る場所で彼にとっては普通の声量かもしれないが一般的には大きな声で言って欲しくはなかったが。
「ふぅ……そうですか……本気ですか……」
私は読んでいた途中の本を閉じる。
普段は図書室なんかには顔を出さない貴公子が、その婚約者に対して別れ話をしている。
注目されても仕方ないこの状況だが、元々利用者が多くない場所であり、周囲に居るのは私の顔見知りばかりだ。
私は彼らに心配の必要は無いと目配せをした後に天井を見上げて、少しの間だけ目を閉じる。
深く息を吐き、今までの事、これからの事。
様々な事を考える。
彼を見る。
いつも自信満々な彼は、私に婚約解消を突きつけた今も胸を張っている。
彼の中で今回のこの行動は恥じる事は無いのだろう。
「それでは……まずは座って下さい」
そうして私と彼の婚約者として最初で最後の共同作業。
「婚約を解消するための話し合いを始めましょう」
婚約解消に向けての会議が始まったのであった。