#08 ヒメ
約3300文字(約7分)
黒装束の二人が去り、強大な魔力の存在感も消えた今、辺りは異様に静かに感じられた。
「ルヒメナさん、介入のこと、黙っていてすみません」
リクオが深々と頭を下げる。
「いいよ謝らなくて。それに、ちょっと安心したし」
「安心?」
「異世界の人を強引に呼び出しちゃったと思って、罪悪感あったんだよね」
リクオが右手を持ち上げた。手にはまだ誓約書が握られており――
「いい! 大丈夫!」
ルヒメナが先手を取ってリクオを制する。
「それは持っててよ」
「ですが……」
「確かに罪悪感もあったけどさ、持ってた方がいいよ。身を守るためにもなるし」
「身を守る?」
「……オリエは危険なやつだからね」
ルヒメナは眉尻を下げて苦笑いする。
「オリエさんが、僕を脅したりするかも、ってことですか?」
今度はリクオが先手を取り、とぼける。
実際に自分の身を守ることを考えるなら、既に脅されたことがある、と打ち明けた方が効果的かもしれない。
しかし今のリクオは、とにかくルヒメナにこれ以上心配をかけたくなかったし、心配をかけてはいけない気がした。
そんな心情から生まれた、咄嗟の嘘だった。
「まあ、オリエならやりかねないね」
「……そうですか」とリクオも苦笑する。
「それに、そんなにリスクが高い誓約じゃないよ? 期限とか決めてないし、私自身が納得できるだけの恩返し、ってくらいの緩い条件だし。
リクオが生きてさえいれば、いつでも、いくらでも、恩は返せるからね」
ルヒメナがやっと、彼女らしい笑みを見せた。
「呼び出しといてリクオを守れなかったら、それこそ右腕だけじゃ償えないし。
でも安心して? リクオが協力してくれれば、私たちはきっと、誰にも負けないから!」
両手をグッと握りしめ、彼女は自信たっぷりに語る。
「はい!」
リクオも自然と笑顔になれた。
この世界のことはまだまだわからないが、なぜかルヒメナの言葉はすんなりと信用できた。
彼女がそう信じるのなら、きっとそうに違いない、と。
「じゃあリクオの部屋に案内するよ! 昨日、リクオ用に作ったんだ」
そう言うとルヒメナは、意気揚々と屋敷の方へ歩き始めた。
外から見た屋敷は二階建てになっており、横に長く、部屋数はかなりあるようだった。
屋敷はよく手入れされているのか、クリーム色の壁には汚れが一切なく、自然に囲まれているにも関わらず、その周囲には雑草ひとつ生えていなかった。
建物の真ん中あたりに、玄関として観音開きのドアが設置されていて、中に入ると正面に階段が見える。
玄関から右の廊下に入ると、その突き当たりに地下へ繋がる階段があり、正面の階段を上がると、先ほどの大広間がある二階へと行ける。
リクオの部屋として案内されたのは、二階の一室だった。
「ここだよー」とルヒメナが扉を開け、リクオを招き入れる。
部屋には、窓が二つにベッドが一つ。机と椅子のセットに、背の低い簡単なタンスがあった。
タンスの上には何枚かの衣服が積まれているようだった。
カーテンは両方とも開かれており、朝の光で室内は明るくなっていた。
「いい感じでしょ?」
ルヒメナが部屋に入り、二つの窓を開けると、外の涼やかな空気が流れ込んでくる。
鳥の楽しげな鳴き声と、屋敷を囲む木々の、ざあざあと葉を鳴らす音が心地よく耳に入った。
「ドアと廊下の窓を開けておけば、風が通って気持ちいいんだ~」と彼女は窓の外を眺めながら語る。
ベッドは壁際にありながら、近くの窓から陽光に照らされていて、朝日と共に目覚められそうな配置になっていた。
リクオがベッドに目をやっていると、唐突にルヒメナがベッドに寝転がる。
「私の部屋は隣になってるから――」と壁をさすり、
「ピンチのときは壁をこう、ドン、と叩いてね?」
笑顔で助言をくれたようだが、リクオは首を傾げてしまう。
「ピンチ?(……盗賊団のことかな?)」
「オリエに襲われたりとかね」
「おそわれ!?」
「ハハハ、まあそこまでするかは分からないけど」
彼女はベッドから降りると、軽やかな足取りでタンスの方へ向かう。
「服はいくつか用意したから、好きなの選んでね。ベルトに付けられるポーチもいくつか置いとくから、好きに使ってね」
「はい。ありがとうございます」
「でもまあ、ここにも長くはいられないと思うけど……」
ルヒメナは俯いて呟く。
途端に部屋まで暗くなったような気がした。
だがルヒメナの横顔を確かめると、その顔つきは悲哀に沈んだものではなく、覚悟を伴ったものだった。
「ルヒメナさん……」
今度こそ盗賊団のことだろう、リクオには、かける言葉が見つからなかった。
悪人に追われ、助けを求め、反撃することを決めたルヒメナ。
自身に危険が迫っているにも関わらず、異世界からの介入者にも対等であろうとする誠実な少女。
その瞳に宿る決意に、リクオも胸を熱くする。
「ルヒメナさん……!」
「リクオ」
顔を上げ、ルヒメナは真っ直ぐにリクオを見る。
「私のこと、ヒメって呼んでよ」
予想外の、真っ直ぐなリクエストだった。
「へ?」
思わず、気の抜けた声が出てしまう。
「ヒメって、呼んで欲しい……」
ルヒメナは、不安そうに目を泳がせていた。
一瞬前の、決意に満ちた表情はどこへ行ったのか。あるいは、この要求のための決意だったのかと、リクオは混乱する。
「は、はい。わかりました。……ヒメ」
「へへっ」と途端にルヒメナは相好を崩し、照れた様子を見せた。
「こういう風に、呼ばれたかったんだよね」
リクオもなぜか顔が熱くなり、窓の外へと目を向けてしまう。
その時ちょうど、二羽の白い鳥が、窓枠の四角に切り取られた青空を横切っていくところだった。
(あれ……?)とリクオは、不意に自分の過去を振り返る。
人のことを愛称で呼ぶのは、初めてではないだろうか。
もしかして、初めての友達ができたのかもしれない。
ルヒメナに視線を戻すと、彼女もこちらを見つめていた。
彼女は肩をビクリと震わせ、
「じゃ、じゃあ私は行くよ。リクオはゆっくりしてて。今たぶん、オリエがご飯作ってくれてると思うから」
と、慌てた様子で口早に述べ、そのまま部屋を後にしようとする。
彼女がドアを開けると、ふわりとカーテンが揺れた。
朝の清涼な空気が窓から入り、瑞々しい草木の香りがリクオを撫でて通り抜ける。
ルヒメナの桃色の髪が風に舞い、振り返った彼女は目を細めた。
「妹さん、見つかるといいね」
希望に満ちた彼女の笑みに、リクオの胸がきゅっと締め付けられる。
「はい」
ぱたん、とドアが閉められ、風が止まる。
なぜか舞い上がったリクオの心も落ち着きを取り戻すと、それに従い、足下に視線が落ちてしまう。
うなだれたまま、耳に残ったルヒメナの言葉を思い返す。
――『妹さん、見つかるといいね』
果たして本当に、そうなのだろうか?
――『お兄ちゃん』
妹の声が聞こえた気がした。
顔を上げると、あの日の妹の姿がそこにあった。
後ろで束ねた黒髪に、自分とお揃いの白の上下。
ただその時だけは、妹の服は赤黒く汚れていた。
「なんで、こんな……」
自分の声も、どこか遠くから聞こえてくる。
「だって、ずっと呼んでるんだもん」
「誰が……」
「ねぇ、一緒に行こう?」
妹が真っ赤な手の平を差し出す。
彼女の手や顎からは、とめどなく血が滴っている。
恐らく彼女のものではないだろう。
この状態の妹を傷つけられる者など、リクオには思いつかない。
「もう我慢しなくていいんだよ、お兄ちゃん」
「だって、もうここには、誰もいないんだから――」
嬉しそうに、得意気に妹は話す。
まるで褒めて欲しそうな笑顔に、その純粋さに、リクオは体の芯から震え上がった。
次の瞬間、妹は姿を消した。
妹がいなくなったことで、彼女が歩んできた廊下のありさまが目に入る。
その白い通路には、赤い染みがたくさんできていた。
白い靴と赤い靴。白衣と腕のセットや、赤にまみれた頭部。
かつて人間だったものがここにありますよ、とそれぞれに赤色の目印が付いているようだった。
リクオはうめき声を漏らしながら、妹のいた場所に手を伸ばす。
そこには、別の空間をリクオに感じさせた。
即断だった。
リクオは、すぐさま新たな能力の構築に入った。
これまで妹を縛っていた能力は失ってしまうだろうが、今はなにより妹を追うべきだ。
それはリクオがこの世界に来る前の、決して忘れ得ぬ、最も鮮やかな記憶だった。
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