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いち

全3話本日投稿予定です。

 

「ほ… 」


「ほ? 」


 いつ見てもどんなときでも、呆れるほどに美しく白を纏うその人。一面を雪に覆われた庭園の中にもかかわらず、白銀の世界に際立ち、見惚れるほどに美しくて。『ほ』と同時に吐き出された白い吐息が消えていく様さえ絵になる… と、思うのは小説の読みすぎですかしら。


「ほ、ほかに想う方ができましたの。ですから、わ、わたくしとの婚約を破棄してくださいませっ! 」


 言えた。言ったわ。やっと。


言われる前に言えました。


 王国の短い夏の空を思わせる薄い青い瞳がその色を濃くする。それが苛立ちを示すものだと知るのは極々一部の者たちだけ。


 えぇ。でもこの美しい人が怒るのは当たり前。しがない貧乏子爵家の娘が、身の程知らずにも侯爵家の御曹司に三行半を叩きつけたのですもの。


 だから……


「逃げるが勝ちですわっ! 」


 あら? わたくし今、口に出していました?




 ❤︎❤︎❤︎❤︎❤︎❤︎❤︎❤︎❤︎❤︎




 後ろでなにやら呼ぶ声が聞こえますが、聞こえないことにいたしましょう。わたくしも逃げるのに必死です。庭園とはいえ雪の中、淑女がドレスで走るのは難しいものですわ。ま、普通でしたらね。あら。そもそも普通淑女は走らない、ですって? いいえ。淑女も一生に一回ぐらいは走りますわ。わたくしはその一回目を只今必死にこなしているところですの。少しお待ちになって。


 ようやく我が家の馬車にたどり着きましたわ。いかに貧乏子爵家とはいえ、馬車ぐらいは持っているのです。乗り心地がいいとは言えませんが。ではここで、馬車に乗る前に、正真正銘貴族の(しつこいですが貧乏です)令嬢が、なぜ雪の中を走れたかをお見せしましょう。はしたないのはお許しになってくださいませね。ドレスの裾を少し持ち上げて… ほほほ。驚かれました? 今朝、屋敷を出るとき、我が家の侍女が相当変な顔をしていましたわ。制止を振り切って履いてきてよかった。ありがとう。ワラグツ。まぁ、ドレスには合いませんが、最初から雪の中を逃げる予定でしたもの。いたしかたありませんわね。




「ラリサっ! 待てっ! 」


 聞こえてきた低い声は、相変わらず耳に心地よいテノールですわ。えぇ。見目の麗しさだけでなく、そのお声も垂涎モノで。えっ? 待て? ギョッとして振り返った先には、キラキラしく眩い笑顔の持ち主。笑顔のままものすごい速さでこちらに向かってきていますわ! なぜ雪の中あんなに早く走れますの?!まさか……


「アレクセイ様も! もしやワラグツですのっ?! 」



「お嬢様? それでどうされますか? 乗りますか? あー。乗ったところですぐに追いつかれそうな気もしますが。あちらの馬車のほうが上等ですし」


 我が家の御者(兼庭師兼馬番兼下男)のフョードルの呑気かつ若干主家を落とす言葉が耳に入ってまいりました。主人のピンチになんたる危機感のなさ! 無事に帰り着いたらこのワラグツに雪を詰めてお返ししてやりますわ! あ、このワラグツ、フョードルがしぶしぶ貸してくれたものなんですの。


「フョードル! 早く出して頂戴! 」


 追いつかれてしまったらどうしてくれるの!


「いやあ、お嬢様、もう遅いと思います」


「そんなことはありません! ないはずですわ! 」


 そうでなければ困ります!


「やあ、ラリサ」


 がしっと肩を掴まれ、ぐいっと引っ張られて、バランスを崩してしまったわたくしは無情にも雪の中に…… 倒れこみませんでした。背後から覆いかぶさるように、わたくしの右の手首をアレクセイ様の右手が…… わたくしの左の腰にアレクセイ様の左腕が巻きつき…… えぇ。捕獲されたようです。


「つかまえた」


 耳元でボソッと呟く声さえ美々しいのは罪だ、と思うわたくしの主張は一体誰が聞いてくださるのでしょう…… えぇ。きっといっぱいいますわね。タチアナ様、ナタリー様、エレーナ様、リュドミラ様…… えーっとあとは…… アナスタシア様。


「フョードル、ラリサがまたすまないね。君も忙しいだろう。彼女は私が送っていく。君はこのまま戻るといい」


 な、な、な、な、なにを勝手に仰っているのでしょう。アレクセイ様、お言葉ではございますが、フョードルは主人の命しか聞きませんわ。ですわよね。


「フョードル」


 助けてほしいと目に力を込めたわたくし。ごらんなさいませ。フョードルはしっかりと目を合わせ頷いてくれましたわ。


「アレクセイ様、ではお嬢様をよろしくお願いいたします」


 はい?


「あぁ、わかった。義父上、義母上に心配なさらぬようお伝えしてくれ」


「ち、ちょっとまってくださいな? フョードル? いくらアレクセイ様のお言葉とはいえ、あっさりわたくしを見捨るなんてひどいではありませんか」


 なんでしょう? フョードルの、このなんとも言えない視線は…… そう……たしか…… 小説では……


「そう、生温かい視線、ですわ」


「いや、残念な、だと思うよ」


 かくしてわたくし、オボレンスキー子爵家長女ラリサは、ツェルゲーエフ侯爵家嫡男アレクセイ様がにこやかに発する冷気という名の吹雪の元に、置き去りにされたのでございました。



 ❤︎❤︎❤︎❤︎❤︎❤︎❤︎❤︎❤︎❤︎



 ドンドンドン!!!


 開けて! どなたか! どなたかいないのですか!? ここから出してください! どうか助けてくださいませ!


 声が枯れるほど泣き叫び、手が痛くなるほど扉を叩く。















 そんなことができますのは物語の中だけですわね。だって醜聞ですもの。


 妄想しながらも開かずの扉をじっと見つめてみました。開かないかしら。でも、開いたほうがこわいような気もしますわね。何故かしら。




 ドンドンドンドン?




 いえ、わかっていますわ。疑問形なのはなんとなくですわ。貧乏でも貴族の娘、こんな時、むやみやたらに騒いではいけないことぐらい存じておりますとも。なのでこの胸の内だけで言ってみただけですわ。たとえそれがどんなに魅力的であったとしても。



 だって。わたくし…… これからどうしたらいいのーっ!



 えぇ。これも心の叫びなだけですわ。




 あれから、わたくしのせいで身体が冷えたと仰るアレクセイ様に引きずられ、ツェルゲーエフ侯爵家の豪奢な馬車に乗せられ…… 着いた侯爵邸で侍女たちの手に放り投げられ…… じっとり濡れて重たくなったドレスを剥ぎ取られ…… えぇ、もちろん最後の一枚は抵抗しましたわ! 当たり前です。乙女なのですもの。


「待ってちょうだい! これだけは、ワラグツだけは許してちょうだい! 」


「ラリサ様」


 侍女頭の視線の先には、お風呂場の鏡…… 写っていたものに口を閉じたわたくしが、最後のヨロイ…… ワラグツを没収されたことを哀れと思し召しなら、ここを開けてくださいませ。



 あ、開きました! 開かずの扉が。



 お湯を使われたのでしょう、濡れた髪を無造作にかきあげながら入ってこられるアレクセイ様の美人ぶりを表す言葉など、どんな小説にも見つかりませんわね。




 ❤︎❤︎❤︎❤︎❤︎❤︎❤︎❤︎❤︎❤︎




「で? ラリサ? もう一度言ってごらん? 君はさっき、この私に対し、なんて言ったのかな? 」


 お父様、お母様、ラリサは人生最大のピンチを迎えておりますわ。アレクセイ様が微笑みながら怒るという芸当を披露してくださっているのです…… ワラグツまで用意して逃げる準備万端でしたのに……


「わたくしの足が遅すぎたのでしょうか…… ドレスの裾が長いのは不利ですわ。次は…… 」


「ラリサ? 次はないよ? そしてまさかドレスの裾を短くしようだなどと考えているわけではないよね? 」


 言外に聞こえた『許さないよ』という音はきっと幻聴でしょう。


「なんでわかったのか、って顔をしているね。君のことは大概分かる。それに君の足を他の男に見せたりしたら…… 怒るよ? 」


 ずずい、と美しい顔貌が近づいてきましたわ! キャッ!


 ではなかった。


「ギャアっ! 」


「ラリサ…… 」


 大変ですわ! アレクセイ様の美しいお顔に変な筋が見えますわ。ここ、そう、御目の斜め上あたり。アレクセイ様、もしやご病気に? やはり意に染まぬ相手との婚約など、不快なだけですわね。では。


「ほ」


「ほ? 」


「ほかに『好きな男がいるって話だけど、どこの誰? 』…… 」


 冒頭に戻ろうとしましたのに、戻れませんでした。


お読みいただきありがとうございます。

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