遺書
怜音と並んで三階の理科実験室に向かう幸雄の肩を誰かが後ろから乱暴に掴んだ。
突然横から消えた幸雄に驚き振り向くと、赤井が幸雄の肩を掴み、眼を細め、口の端を上げて立っていた。
「おまえだろ、こんなふざけたもの俺のロッカーにいれたの!」
赤井は空いている左手で自分のズボンのポケットから何か白いものを出し、握ったまま幸雄の顔を殴った。
幸雄は廊下の窓硝子に激しく体をぶつけ、その衝撃で割れた硝子が照りつける太陽の日差をきらきらと反射させながら、三階から一階の自転車置き場の屋根に落ちて行った。
理科実験室に向かっていたクラスメートの女子数人が短い悲鳴をあげ、その悲鳴を聞いてほかのクラスの生徒も何事かと廊下に顔をだした。
みなが割れた窓を見ていたが、幸雄、赤井、怜音の三人だけは違うところを見ていた。
足もとに落ちたくしゃくしゃになった白いものを見て、怜音は眼を見開いた。
そこには遺書と書かれた白い封筒が落ちていた。
怜音は信じられない気持ちを抱えながら幸雄へ視線をむけると、そこには今まで見たことのない親友がいた。
いつもなら赤井の前に立つと背中を曲げ、うつむき何も言えない幸雄が、今は背筋を伸ばし、赤井の眼を真っ直ぐ見つめ不敵な笑みをこぼしている。
「読んでくれた?」
へらへらと笑いながら白い封筒を拾って、赤井の顔の前で左右に振った幸雄の態度はどこか狂気を感じさせた。
「そんな気持ち悪いもん読むはずねえだろ!」
赤井の怒声を軽く受け流し、幸雄は言葉をつなげた。
「じゃぁ、読むから聞けよ」
幸雄は封筒を乱暴に開け、中から三枚の紙を引っ張り出すと、声を張り上げ読み始めた。
「青山幸雄は赤井竜也のいじめを苦に自殺します。ここに赤井に受けたいじめの内容を書き留めます。赤井は僕を体育倉庫に連れて行き、マットで簀巻きにした上から何度も蹴りました。僕があまり痛がらないので、赤井は倉庫にあった金属バットでマットから出ている足首を殴りました。僕が悲鳴をあげたのを見て嬉しそうに笑い、今度は卓球の球を口に何個入るか試し始めました。
赤井と一緒にいた人間の名前はあえて伏せておきますが、Yくん、Uくん、Kくん、あなた方も、同罪だという事を忘れないでください。手足の自由を奪われた人間が、卓球の球を何個も口にいれられ窒息死する寸前の顔が、そんなにおもしろかったですか? 僕は死んでもあの時笑ったあなた達の顔を忘れることはないでしょう」
赤井の後ろに立っていたY、U、Kと呼ばれた三人は今の状況が信じられないのか、口を開け固まっている。幸雄はそんな三人を無視して読み続けた。
「赤井は自分のロッカーに隠してあった、二週間前の牛乳を僕に飲むように言いました。腐ってどろどろになった牛乳をストローで飲めといい、拒否した僕を見て赤井が怒り出し、羽交い絞めにされ、口を無理やり開き、どろどろの腐った牛乳を流し込まれました。鼻を衝く酸っぱい匂いと、喉を通るあの毛虫を丸呑みしたようなざらついた感触を何度も思い出し吐きました。
毛虫を丸呑みしたという表現は大げさでも、間違ってもいません。実際赤井は僕にそれをさせたことがあるのですから。
あの日、牛乳を吐いた僕を見て、体育ジャージの背中に笑いながら赤いマジックでキモイと大きく書いた女子のAさんに質問です。二週間前の腐った牛乳を飲まされて吐いた僕と、体育ジャージの背中に笑いながらキモイと赤いマジックで大きく書いたあなたと、どちらがキモイですか?
それとカビがびっしりとはえたパンを食べさせられたとき、「美味しい?」と訊いて来た女子のBさん、あれから僕はパンを食べられなくなりました。それが答えです」
Aと並んで立っているBの顔は血の気がなく、今にも倒れそうだった。
「クラスのほかの人達にも言っておきたい事があります。まず礼を言っておきます。いじめに加わらないでくれてありがとう」
幸雄は周りを見渡し深く頭を下げた。
「僕にはあなた達を責めることは出来ません。逆の立場なら僕も見て見ぬふりをしたかもしれないからです。人はその立場にならなければ、本当の痛みなどわからないと思います。それはニュースで流れる事件と同じで、同情はしてもすぐに忘れてしまうことと似ていると思います。
でももしこれから僕のような人間を見たら、少しだけ手を差し伸べてください。それだけでその人は一日長く生きられます。
その手が多くなればその人はもっと生きることが出来ます。これは僕のエゴかもしれません。でもそれが僕の望むことです。
みんなとは違い見て見ぬふりをしてはいけない人がいました。担任の横山先生です」
幸雄の視線を追うと、異変に気づき階段を走って来たのか、肩を上下させ息を切らした横山が階段の踊り場に立っていた。
「先生は僕が体育ジャージにキモイと書かれているとき教室の前の廊下を歩いて行きましたよね。気づいてないとは言わせません。必死にもがいている僕と目が合ったのですから。次に生まれるかもしれない僕のような人の為にも、あなたは今すぐ教師を辞めるべきです。生意気かもしれませんが、それが先生にできる最後の選択だと思います」
横山は何か言おうとしたが、すぐに口を閉じた。
「自殺する人間は弱いなどと言う人がいるかもしれません。知っておいて欲しいのは、僕は自殺を美化するつもりはないという事です。ここまで育ててくれた両親にすまない気持ちで一杯です。僕を励まし続けてくれた怜音に謝りたい気持ちで一杯です。自殺など最低な手段だと思います。
それでも僕は自殺します。
それを弱い人間だと思う人も多くいるでしょう。実際いじめに耐え抜き立派に生きている人が大勢いる事も知っています。その人たちと比べると僕は弱い人間なのでしょう。
でも、理由のない暴力ほど怖いものがないことを知ってください。自分の人生を誰かが捻じ曲げる理不尽さを知ってください。
身体の痛みは我慢すればいつか消えます。今日は何をされるのだろう。明日は何をされるのか。明後日はもっと酷いことをされるんじゃなか……。そんなことを考えて生きるのはもう嫌なんです。明日になればすべて解決しているなんて馬鹿な夢をみる自分にはもう耐えられません。
あと少し我慢すれば、中学を卒業し違う世界が待っていると何度も考えました。でも、喉がからからに渇いている時に冷たい水を目の前に出されれば手を伸ばしたくなりませんか? たとえが少し変ですが、いじめでからからに渇いた心を満たす方法を僕は一つしか想い付きませんでした。
皆さんは生まれてきた意味を考えたことはありますか? 人は何かの使命をもって生まれてくるのなら、僕の使命はなんなのでしょう。
いじめられるために生まれてきたのでしょうか? もしそうなら、最後ぐらいは自分で終わり方を決めてもいいと思いませんか?
まだまだ書きたいことはありますがこれぐらいにしておきます。
最後に赤井たちに忠告と質問があります。
僕をかばっていじめられるようになった怜音に、僕が居なくなった後、同じことを繰り返したならば、絶対にあなた達を許しません。死んだ人間になにができると思っているかもしれませんが、必ず報いを受けさせます。その方法を残して僕は死にます。
これが忠告です。
最後の質問です……。
あなたたちは、この手紙を読んでも笑っていますか?
廊下は誰もいないように静まりかえった。
みんな幸雄の言葉を理解するのに時間が欲しかった。
「ふざけんな! 遺書だか何だかしんねえけど本気で死ぬ気なんてねえんだろ!」
幸雄は気持ちを落ち着かせるため、細い息を吐きながら周りにいる人たちをゆっくりと見渡した。
「みなさん目を閉じてください。赤井おまえだけは、目を開けて良く見ていろ!」
割れた窓硝子に背を預けた幸雄と怜音の視線が絡み合う。
「怜音ずっと友達でいてくれてありがとう……。負けるなよ」
「幸……雄……?」
カッと目を見開いた幸雄が一瞬で割れた窓硝子に頭から飲み込まれ、自転車置き場の屋根がへこむドスっという鈍い音が怜音の鼓膜を震わせた。
身体の力が一瞬で吸い取られたように、怜音は膝から崩れ落ち、一秒前まで幸雄が立っていた窓の前を呆然と眺めた。
死は意外と手の届く場所にいつでもあって、影のようにそっと寄り添うものだった。
「幸……、雄……」
白昼夢のような出来事から怜音を呼び起こしたのは、自転車置き場の前に位置する一年生の教室からもれた甲高い叫び声だった。