自殺の公式
二階にある図書室は静かだった。
職員室を出た後、教室に戻る気にはなれず、怜音は図書室に向かった。
一時間目の授業が始まっていたので図書室には生徒は誰もおらず、先生方の姿もなかった。
普段なら授業のない先生が息抜きに図書室を使っているようだが、今日は幸雄の事があり、そんな余裕はないようだった。
念のため図書室の入り口からは死角になる場所に腰を下ろし、制服のポケットからスマホを出すと、いくつかのキーワードを書き込んだ。
『死、自殺、心理、十六歳』
数秒待つと画面にその言葉にまつわるものがたくさん浮かび上がり、その中から怜音は心理学入門と書かれた場所を開いた。
人の死について知りたかった。幸雄が何故自殺したのかその手がかりが欲しかった。
自分の知りたいことがなかなか見つからず諦めかけた時、直接心に語りかけてくる文字があった。その文字の中には背中に虫が這うようななんとも言えないおぞましさが詰まっていた。
『自殺=自殺の準備状態+直接の原因』
これが自殺の公式だった。
その下に説明が書いてある。
『高齢者の自殺の原因は、覚悟の自殺です。確実に死ねる方法で死にます。ただ自分が生きた証しを残したいと考え、誕生日や、敬老の日に死ぬ『記念日自殺』が多くなる傾向があります。若者の自殺は助けてという心の叫びです。死をかけた人生の賭けにでるものです。そこで自殺の予告メールや何度もリストカットを繰り返したり、睡眠薬を使った自殺を試みます。死ぬまでに誰かが見つけてくれ、問題が解決出来たらまた生きていけます。その賭けに負ければ死です』
幸雄はいつ自殺の準備をしたのだろう………。机に死ねと書かれたときか。それとも赤いマジックで大きく体育ジャージにキモイと書かれた日か。
幸雄が自殺する前の日、いつもとかわらず放課後コンビニに寄ってアイスを買って食べた。今思えば幸雄の様子は少しおかしかった。
(お前はあのとき準備が終わっていたから、使う事を避けていたあの言葉を使ったのか。いじめという言葉を……)
鼻の奥が痛くなり、目の表面に熱いものが浮かんで来る。ぼやける文字を探るように読んでいくと最後にこう書かれていた。
『少年期の自殺は親や教師、友達に対する、心理的復讐です。死にたいと言っている人間は死なないなんて言葉がありますが、それは嘘です。死にたいと言っている人間は死にます』
怜音の身体が小刻みに震えだし、嗚咽にまぎれて言葉がもれた。
「幸雄、俺は必ずあいつらに復讐してみせる」
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『自殺前日』 午後四時十五分
「怜音、俺どこか変か?」
学校の帰り道、右手に持つアイスを舐めながら、幸雄が突然そんなことを訊いてきた。
「別に変じゃないけど。なんで?」
幸雄は自分と同じ本当に普通の中学三年生だった。見た目もそんなに悪くないし、背だって百七十五センチと怜音より三センチも高い。不潔にしている訳でもなく、髪型だってきちんと今の流行を取り入れている。
「じゃぁ、なんでいじめられるんだろう……」
今まで頑なにその言葉を避けていた幸雄が、初めていじめという言葉を使った事に怜音は驚いた。
幸雄は何かが壊れたように、抑揚のない声でしゃべり続けた。
「どうしてもわからないんだ、自分がどうしていじめられるのか。授業中も家に帰ってもそのことばかり頭から離れなくて。何か理由があるなら……、変な言い方だけど納得していじめられることもできる。理由がないのにいじめられることが、とても怖いんだ。だってそれは……、終わりがないって事だろ?」
溶けたアイスで青く染まった幸雄の右手が小刻みに震えていた。
「理由があればいいのか? 納得していじめられるなんておかしいよ」
自分の事のように怒りを表す怜音を見て、幸雄は微笑んだがすぐにその笑みは消えた。
「お前は納得してるから、俺と友達でいてくれるんだろ?」
心臓を鷲掴みされたような痛みを隠し、怜音は大声を張り上げた。
「納得なんてしてないよ! ただお前が……そういう事されるのを見たくないんだ」
いじめという言葉を濁した怜音を見て、幸雄は唇を噛んで下を向いた。
「ごめんな」
「お前が謝る事なんて一つもない。謝らなきゃいけないのはあいつらだろ!」
「俺がいなくなれば、すべて解決するのかな」
「転校するってこと?」
幸雄は下を向いたまま黒板に爪を立て時の耳障りな音に似た甲高い笑い声を上げた。
怜音が眼を見開いて幸雄の横顔を探るように見ると、突然溶けたアイスで青く染まった右手を怜音の顔の前に突き出した。
『あたり』と赤い字で書かれたアイスの棒が怜音の眉間の間で左右に踊り、顔を上げた幸雄の頬に流れた涙のあとが残っていた。
「生きてれば良いこともあるんだな」
怜音は笑いながら幸雄の肩を拳で軽く殴った。
「それぐらいで感動するなよ。これからもっと良いことたくさんあるよ」
幸雄は、恥ずかしそうに口元をほころばせ、青い右手で涙の跡を拭うと、消えかけたピエロの化粧のように涙の跡は青い筋になった。
「アイス取り替えてこようかな」
そう言った幸雄に怜音は眉をしかめ言葉を返した。
「戻るのめんどくさいし、明日にすれば?」
「……明日?」
幸雄は不思議そうに首を傾げた。
「どうせ明日もあのコンビニに寄るんだしそのときでいいじゃん」
幸雄は口元に笑みをこぼし、アイスの棒を制服の胸ポケットに差し込んだ。
隣を歩く親友が明日自殺するなんてこのときの怜音は知らなかった。
十五歳の自分たちに明日が来ないなんて、頭の片隅をよぎりもしなかった。
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午後五時二分
Tマンション七階の屋上で青山幸雄は膝を抱えて座り、腿に国語の授業で使っているノートを乗せ、低い雲の上をゆっくり沈んでいく夕日を眺めていた。
このマンションの三階に幸雄は住んで居る。両親は共働きなので夕食はいつも母親が用意していった料理を一人で食べた。
両親が帰って来ると三人でテーブルを囲み今日の出来事の報告会を開くのが日課だった。幸雄は何度もいじめのことを相談しようか迷ったが、結局いつも両親が喜びそうな架空の幸せな自分の話を作り出し語った。
もし自分がいじめに合っていることを知ったら、この幸せな時間が壊れてしまう。一生懸命働く両親に心配させたくなかった。それに話してしまうと、自分の逃げる場所を失いそうで怖かった。両親が知れば、自分はいじめという怪物と正面から向き合わなければならなくなる。その怪物に勝てないことを自分が一番よく知っている。
怜音と過ごす時間、両親と過ごす時間、それだけが幸雄の逃げ場所だった。そして、三人だけには青山幸雄という人間を認めていて欲しかった。
逃げ場所を失なった自分に残るのは忘れ去りたいみじめな気持だけだ。どちらかを失えばもっと早く自分の心は粉々に砕け散っていただろう。
夕日の頭が立ち並ぶビルに隠れた。幸雄は腿にのせていた国語のノートを開き最後の文字を綴り始めようとしたが、出だしでつまずいた。
遺書の書き方など誰も教えてくれなかった。そもそも自分が何を書き残したいかわからない。両親への感謝。怜音への感謝。それを書き始めればノート一冊ではたりない。自分をいじめた相手への恨み……。それは確かにある。だがそれを書いたところで、あいつらは反省したふりをするだけで、本当に反省することはないだろう。何年後かの同窓会で笑い話にされるぐらいか、思い出しもしないだろう。
いつのまにか夕日と入れ替わった、透明な月の光がノートを照らし、気づかぬ間に文字が浮かんでいた。
『僕が生まれてきた意味はなに? 僕はなぜ死ななければいけないのか……。死にたくない……。死にたくない』
自分の意志に反し、殴るように乱暴に書かれた文字が猛スピードで脳に流れ、何度も口からこぼれる。
「死にたくない……。死にたくない、死にたくない」
ガクガクと身体中が震え出し、大粒の涙が頬を伝う。流れ落ちる涙を拭くことはせず、幸雄は枯れるまで流そうと思った。
そして枯れた時が自分の最後だと決めた。
涙でぼやけていた視界が徐々にクリアーになっていく。考えることに疲れた脳が最後の役目を果たすためゆっくりと動き出す。
幸雄はノートに文字を綴った。
『青山幸雄は赤井竜也のいじめを苦に自殺します』