卒業アルバム
2016年 3月10日
四月から東京の大学に通う事になった神村怜音は、引っ越しの荷造りのため、埃をかぶり押入れに積まれていたダンボールの中身を、持っていくものと、捨てる物によりわけ始めた。
作業を初めてから二時間ほどが経ち、やっと最後のダンボールに取り掛かった時、冬物のコートの間に挟んであった中学校の卒業アルバムを見つけ、玲音は心の奥に眠っていた深い闇が突然起き出す恐怖を感じ、卒業アルバムを部屋の壁に叩きつけた。
フローリングの床に落ちた卒業アルバムは、まるで意思を持っているように一枚、一枚ページがめくられ、ゆっくりとその動きを止めた。
開かれたページには縦に四列、横に八列に並んだ小さな正方形のマスの中に将来への希望に満ちた笑顔を浮かべるクラスメート達が収まっていた。
怜音の視線は親友だった青山幸雄の写真の上で止まった。いま改めて見るとその写真は幸雄の人生そのものを表現するように、人間が持っている喜怒哀楽すべての感情がそぎ落とされていた。
写真撮影の一週間後に、幸雄はこの世を去った。
今から四年前、一緒に卒業するはずだった親友は、何を想い、どんな景色を最後に見たのだろう。
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2012年 7月14日
ベットの上に気怠い身体をあずけ、神村怜音は親友の青山幸雄からもらった手紙を読み返していた。
その手紙には自分への感謝の気持ちがいたるところにちりばめられ、最後はこう〆られていた。
「生まれたときがスタートだとしたら、僕はキミより少しだけ早く、ゴールにたどり着いただけなんだ」
怜音は何度も手紙を読み返し、その言葉の意味を考えた。
命の強さの違いはどこにあるのだろう。もしかすると、生まれたときにいつ死ぬかは決まっていて、そのときが来るまでは死にたくても死ねない、逆に時が来てしまえばどんなに生きていたともがいても死ぬしかない。そんな単純なことなのだろうか。
もしそうなら、幸雄が亡くなったのは、その時が訪れただけなのか。 あんなに壮絶な最後も、その時が来た結果に過ぎないのか。
冷たく光る月が窓から薄くさし、怜音の顔を半分照らす。暗闇に浮かぶ怜音の口元から砂を噛むようなざらついた声が漏れた。
「幸雄はゴールしたんじゃない。あいつらに、殺されたんだ」
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2012年 7月6日
「時間はみんなに平等で、そのなかで生きているのだから、チャンスだってみんなに平等のはず」
落ち込んでいた怜音を励ますために耳を赤くしながらそう熱く語ってくれた親友の青山幸雄が、昨日自ら時間を止めてこの世を去った。
平等だったはずの時間が彼を苦しめ、そこから抜け出す手段を中学三年の青山幸雄は一つしか持っていなかった。
「自殺する奴は、弱い。卑怯者だ!」
教室の後ろにあるロッカーに背を預け、この世のすべてを知ったかのような顔でそんなことを自慢げに語るクラスメートの赤井竜也を、怜音は苦々しい想いで睨みつけた。
三人の男子と二人の女子が赤井の周りを囲み、自分の意志などもって生まれてこなかったように賛同している。
怜音は今まで自殺する人間が強いか弱いかなんて、考えた事がなかったし、卑怯者かどうかもわからなかった。
正直にいうと、死とは年老いた人間だけのものだと思っていた。自分と同じ年の人間が死ぬなんて想像すらできていなかった。
人は大きな石につまずくと、必死に立ち上がろうと努力する。それを見ている周りの人間は手放しに応援し賛美を惜しまない。他人が必死で立ち上がる姿を自分と重ね合わせ、まるで自分が乗り越えたような錯覚に落ち、酔いしれる。
でも目に見えないような小さな石につまずき続ける人間を、人は蔑み、笑い、そして小さな石をわざとまき散らし、陰でそっとこう言うのだ。
自分でなくて本当によかったと……。
幸雄は何度も立ち上がった。小さな石をまき散らす人間に対して文句ひとつ言わずに、何度も何度も立ち上がった。それだけは怜音にも痛いほどわかっていた。
出席を取りに担任の横山圭吾が教室に入って来ると、不思議な空気が教室を満たした。
担任の第一声がどのような言葉から始まるか、クラス全員が横山に注目している。
普段、横山の話など聞きもしない赤井まで、背筋を伸ばし好奇の目を向けていた。
教壇に立つと横山は全員の顔を見渡し、硬く結んでいた口を開いた。
「知っていると思いますが、昨日、青山幸雄君が亡くなりました。葬儀は明日の夕方六時に正法寺でおこなわれます」
横山はもう一度生徒全員の顔を見て、何かを確認するように大きく頷くと出席を取り始めた。
怜音は担任の言葉を聞いて愕然とした。
これで終わりなのか。自分の教え子があんな壮絶な死を迎えたのに、まるでインフルエンザが流行してるので気をつけてください、そんな季節の行事ごとみたく語られるほど、幸雄の命は軽いものだったのか。
怜音の軽蔑の眼差しに気づいた横山は、何食わぬ顔で視線を避け、早口で出席を取り終えた。
神妙な顔つきで教室を出て行こうとして横山が何か思い出したように振り返った。
何故か怜音に向けられた横山の視線はどこかやらしい熱のこもったものだった。
「神村、職員室に来てくれ」
横山が教室から消えると、クラスの中は幸雄の話題で今まで感じたことのない熱気に包まれた。
その狂気を含んだ熱にあてられ、怜音が身体を小刻みに震わせているとき、赤井が椅子を乱暴に引き立ち上がると、怒声を上げた。
「おまえらわかってると思うけど、余計なこと言うなよ! 誰かにしゃべった奴は青山と同じ目にあわせるからな」
教室は水を打ったように静まり返った。
教室を出ようとした怜音の肩を乱暴につかむと、赤井が耳元に顔を寄せた。
「何かしゃべったらどうなるかお前が一番知ってるよな? それにお前にだって責任あるんだからな」
怜音は何も答えず、静まり返った教室を出て、職員室に向かって歩き出した。
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「失礼します」
職員室に入るとクラスを持っていない数人の先生が電話の対応に追われていた。たぶん幸雄の事で生徒の両親から説明を求める電話なのだろう、「そのような事は無いと思います」、「こちらとしても今調べているところなので」、そんな言葉が怜音の耳に飛び込んできた。
怜音の顔を見て憂鬱な表情を向ける先生、露骨に睨んでくる先生、自分に向けられる敵意を感じながら歩みを進め、窓際に置かれた担任の横山圭吾の机の前に立つと、気怠そうに怜音の顔を一度見た後、すぐに答案用紙に視線を戻した。
「あの……、何か僕に」
「お前、青山の親友だったろ。何も気づかなかったのか?」
怜音のか細い声をかき消す横山の大きな声と、過去形にされた自分と幸雄の関係に苛立ちを覚えながらも、担任からの問いかけに、怜音はおもわず顔を伏せた。
そのことは何度も自分自身に問いかけ、後悔が怜音の心をしめつけている。
亡くなる前、怜音が言った聞くに堪えないだろう愚痴を、幸雄はいつもと変わらぬ真剣な態度で聞いてくれた。
あの時幸雄は何を考えていたのだろう。叫びだしたいほどの痛みを心の中に抱えながら、どんな気持ちで自分の話を聞いていたのだろう。
「お前の言いたいことはわかるし、俺はお前の痛みもわかるよ」
怒りで次の言葉が出てこない怜音の代わりに幸雄はそう言った。
あの時の幸雄の声は頭の中を針で刺すような痛々しいものだった。
もしかするとあの言葉の続きは、「だからお前も俺の痛みがわかるはずだろ……」だったのか。
どんなに信頼している相手でも、人は心の奥に潜む闇を、簡単に晒すことはしない。
幸雄が消えてからそんな後悔の闇に捕らわれ続けていた。
横山は答案用紙から顔を上げ、肩の凝りをほぐすように首を回す動作を何度か繰り返した後、突然弱々しい表情を作った。
「お前を責めてるんじゃないんだ。先生も気づいてやれなかったしな」
「えっ………。先生はなにも気づかなかったんですか。幸雄の机に書かれた死ねという文字も、キモイと赤いマジックで体育ジャージに大きく書かれていたのも、知らなかったというんですか!」
叫びに似た声が職員室に響き渡ったると、数人いた先生がいっせいに怜音に視線を向けた。
「そんな事、先生は知らなかった。青山が苦しんでいたのを知っていたらどんな相談にも乗ったのに……」
「先生は幸雄が最後に残した言葉も無かったことにするんですか?」
体育教師の村山が電話口を押さえ、迷惑そうに咳払いをすると、横山は職員室にいる数人の先生を見渡し、顔を歪め頭を下げた。
その横山の態度で怜音は確信し、この男が自分をここに呼んだ意味をはっきりと理解した。
この男は自分にこう言わせたかったのだ。「あなたの責任ではなかったと……」。
普段から大人しい神村なら自分の言葉に異議を挟まず、ただ頷くだけだろう。そんな邪な気持ちを隠すように、それからも横山は幸雄のことなど忘れたみたいに、自分の弁護を辞めなかった。
横山が口を開くたびに、蜘蛛の糸のようなねばねばした唾液が口内で糸を引いた。怜音はその汚い口を今すぐふさいでやりたい衝動を必死で抑えた。
何もしゃべらない怜音を見て、横山は弱々しく微笑んだ。
「信じてくれ先生は本当に何も知らなかったんだ」
横山の芝居じみた態度は見ていられなかった。教師という立場でいながら自分を守るために、生徒が苦しんでいるのを知らなかったと平気で嘘をつく目の前の男は、怜音には同じ人間だと思えなかった。
こんなやつと話すことなどなにもない。いや、それ以前に保身という薄汚い鎧を、自慢げに見せびらかすこの男には言葉など通じないだろう。
能面をつけたように表情が消え、ドアに向かって歩き出した怜音に、そこにいたほかの先生は、まるで安いドラマでも見たような冷めた視線を送ってくる。
(あんたら全員狂ってるよ……)
その冷たい視線を真っ直ぐ受け止め怜音は心に誓った。あんたらが何もしないなら、俺が幸雄の仇をうつと……。