では、私が、すぐ前に立っているのを知りながら、なぜ、あのように無防備でいられたのか。私だけなら良いとして、あのように混雑している所で。大学生の男にまですきみされる所で。屈めば覗かれそうなこと位分るではないか。やっぱり、恥じていないのかしら。見られるものなら見えてしまえという気なのか。そのようなことはない。見えてしまえなどと思うはずが。
最近は、左手を隠さない。以前は、軍手を嵌めていたのに、暖くなってからはしなくなった。隠す為ではなくて、寒いから、手袋がわりにはめていたのだろうか。確に、初のうちは、隠す努力をしていた。私の目に触れないように工夫していた。テーブルについて向いあったときには、拳を握ったり、膝の上に落したり。仲良くなってからは、それがなくなった。そもそも、遠慮のいる人の目からは隠すが、そうでない人には隠す必要を感じない。そういう考だったのかしら、指の欠損は。痣も、同じように考えているのだろうか。湯屋に集るような人なら見られても構わないと。湯屋で、左手を隠す理由はない。だから、痣を隠す理由もない。そう考えるのだ。考と言えるほど明確なものですらないかもしれない。
無思慮な服装をした上に、あの、危っかしい屈みかたをするのも、羞恥心を、初から持たなからなのだ。覗かれると思いなどしない。よしんば見えたとして、通りすがりの人間ばかりだ。私になら隠すだろうか。温泉に行こうと誘ったら、どんな顔をするだろうか。
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