すると、両手を、激しく振って、「そんな、言うことではありません。お姉さんは凄いです。ピアニストみたいだったり、アメリカで暮したり。私なんか、高校にも行かないし、なんにも知らないし、本当に馬鹿です。英語だって、劇の言葉、全然分りませんでした。」本心から言うのだ。「何を言うの!坊は、とっても賢いわ?お姉ちゃんよりか、ずっと才能があんのよ?ただ、機会がなかっただけじゃないの。本当よ?これ。嘘じゃないのよ?坊は、レコードを聴いて、すぐ覚えちゃうでしょう?あんなこと、普通、誰にもできないのよ?生れつきの才能。だから、お姉ちゃんね、本当を言うと、坊に、音楽を教えてみようと思ってたとこなの。それとも、白状しなさい!本当は、小さいときから、楽器を習っているんでしょう。」「いえ!楽器だなんて、とんでもない。音楽は、学校で聴いただけです、ベートーベンとか、ブラームスとか、モッツァルトとか。」つい、調子に乗って、聞かなくても良いことを聞いてしまったと気が付いて、赤面するのを見ると、言葉が出なくなった。「じゃ、次回から音楽レッスンよ!モッツァルトから始めましょ。」目深に被った野球帽の鍔に手を掛けて、ちょっと直してやる心算だったけれど、いっそのこと取って、何度か、蒸れた頭を、額から撫上げた。「暑いでしょう、脱いじゃいなさい!」額の汗を、袖で拭いてやった。飲んでいた水筒を、リュックサックに戻して、帽子も、一緒に仕舞うと、坊は、又、ちょっと背負直す恰好をした。「暑いから、置いていきましょう?」と、自分のを、石段の最下段に凭掛けながら、彼女に言った。彼女は素直に従って、青いリュックがふたつ、濃いのと薄いのとが、段の下に並んだ。薄いのが私ので、濃いのが彼女の。これで、すべての条件が整ってしまった。
5/12(木)の記事は続きます。[編者]
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