近寄って、背中に、手を掛ける。坊は、一度見上げて、頷いて、又、下を向く。私は、ハンカチを出す。髪の毛の雫を払ってやる。
「あなた傘は?」
どうやら、私も、坊も、二人まで、用意もなしに、雨の中を出歩いているようね。
「ね、立ちなさい?少しなら歩けるでしょう?すぐ其処まで。あなた、そんな青い顔をして雨に当ったら肺炎になっちゃうわよ!」
だきかかえて、坂上のエノキテイに連れてゆく。見ると、さっき立濡れた元町公園は、とうに、夜の領分。
道を行く人はいない。車のとおりも疎な火曜日の山手通り。
店に入る。席に案内される。水が出る。注文を聞きにくる。
まだ決らない。こちらで呼ぶから、少し待ってほしいと言う。坊は、下を向いて黙っている。
「だいぶ悪いの?あなたは黙っていていいのよ?私がしゃべるから。私は鎌田滋子といって、近くに住んでいるの。あんな所で倒れているのを放っておけやしないでしょ?少し落着くまでじっとしているといいわ?」
この子を、暗い坂で、初て見たときは、短く刈った髪の所為もあって、蒲柳質の男子中学生と間違えそうだった。でも、屋内のあかりに照された顔を見ると、紛もなく、二十歳前後の同性。
栄養不足で、血色が良くない。疲が隈になってしまった。無表情なことと言ったら、薄紙を透して見るような顔。干涸びかかった顔。
口の横に、血が滲んでいる。唇の付根が、あかぎれになって、何とも貧相。店まで抱えてくるときは、肩の骨、腰の骨、肘の骨、膝の骨で困った。無暗に、人に食込む。それまでに痩せぎすなことが、彼女の顔に対する、貧相なイメージを、一層強いものにする。
白いシャツに、茶色のセーターを、毛玉だらけにして着ている。色の褪せたジーパン。
そっと、そのときにおろされた物がある。
左手が滑下りた。赤いハンカチを握っていた。
坂で、頭の水滴を払ってやったハンカチを、彼女は、そのときから、ずーっと、左手に握締めていた。握ったままで、テーブルの上から、膝上におろされた。
動作は、私が注目したのと同時に行われた。
私は、先端部が欠損した中指と薬指を見逃さなかった。
滋子の手書き原稿に忠実な翻字は以下で
http://db.tt/iLr0s1Ma
目次はこちら
http://db.tt/fsQ61YjO