「今、お湯を沸しているんだけれど、お湯をさますのに少し時間がかかるの。そのあいだ、ほかの物で我慢してほしいんだけれど、何がいい?オレンジジュース?アップルジュース?グレープジュース?牛乳もあったわね・・・何か、欲しい物がないかしら。」
「それじゃ、お水を、すみません、一杯頂きたいんですけれど。」
「ええ。じゃ、お水と、あと、ほかに、何か持ってきてあげるわね?」
客間に、水とオレンジュースを、お盆に載せて持っていきました。
何分かして、台所で、茶道具を出しているところでした。彼女が駆込んできたのです。「雑巾を貸して下さい。」と言います。目をまんまるにして、涙が滲んでいます。
「すみません。こぼしました。あの。私、こぼしました・・・。」
「そう。じゃ、そのままにしておてちょうだい。いま行くから。」
「あの。私、どうすれば良いでしょうか。馬鹿をしました。許して下さい。」
「大丈夫よ、由加里ちゃん!何でもないわ、気にしないで?」
行ってみると、テーブルと絨毯の上に、沢山、ティッシュー・ペーパーを撒いて、ぐっしょりとなっています。喜久家の箱も、底から、側面からふやけてしまって。オレンジ・ジュースをひっくりかえしたのです。
彼女は、帽子と軍手を、ソファーに放りだして、布巾を、私の手から奪って、絨毯を拭始めました。べそをかいて拭いているのがいじらしくて、拭く手を抑えて言いました。「由加里ちゃん、この絨毯ね、水を弾くから、そんなにしなくても平気。気にしないでったら。」
「でも、私、お菓子を台なしにしちゃって・・・。」
「そんなことはないわ?箱にかかっただけよ。ね、由加里ちゃん、手を洗ってらっしゃい。あとは、私がするから。」彼女のふたつの手を、私の手の中に包みました。
冷たく湿って、繊細なことといったら、まるで子供の手のようです。彼女は、片方の手の中に、片方の三の指以下をまるめこんで、右手で、左手を庇いました。それ全部を、更に外から、私が持ちました。彼女は、初、引込めようとしたらしくありました。その力を感じました。けれども、結局、そのまま預けてく れました。私が、胸元近く持上げると、微かに震えていました。彼女の目は、私の目を見ていました。子供の視線が、母親の視線を求めるように、大きく見開いていました。
4/11(月)の記事はまだ続きます。長いので分けて載せます。[編者]
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