編者注:[くう]は、滋子の手書き原稿にあるルビ。(天野)
石川町から歩いてきたと言います。「元町を通ってきた。このあいだ教えてもらった住所を目指して来たのだけれども、坂道が入組んでいるので、方向が分らなくなった。あちこち歩回った。あっちへ登り、こっちへ下り、到頭迷子になった。(私滋子に、)電話を掛けようと思った。でも、公衆電話が何処にもない。倉庫が、沢山見える所に出てしまった。其処は、もう、山手の風景ではない。公衆電話があった。(ところが、あいにくと、私は外出中だったから、)いくら鳴らしても出ない。途方に暮れて、又歩いていると、おまわりさんが、交番に立っていて、彼が、地図を書いてくれた。お陰で、此処を、やっと探当てられた。」このようなことを、一人言のように言います。ずーっと呟続けるのです。空[くう]を見つめたまま、私の視線を避けるように。
私は、努めて愛想良くしました。ありったけの同情を、顔に表して、横から覗込むように、膝詰に、時々、二の腕とか、肩に、そっと、手を触れなどして、相槌を打ちました。でも駄目です。芝居染みたことです。彼女は、無意味な悪戯をされたことが不信なのです。下手に繕えば繕うだけ、心をとざしてゆきます。こめかみに、黒子がある。体に触れられるたびに、頬に、弱い痙攣が走る。
私は私で、少し虫の居所が悪かった。彼女の態度がではありません。不満でなかったと言えば嘘です。一生懸命に仲なおりしようと努力しているのに、一向つれないふうなのですもの。でも、この日は、もともと、厭な気分をどうもできずにいたのですから。(山下公園の、コーヒーの事については、全部書きました。)けれども、いくら何でも、由加里は、やっぱり、少し酷過ぎる、いえ、度が過ぎるように思えました。
「先日の晩は有難うございました。今日は、その挨拶で来ました。」と、最初の「お礼」こそ、面と向ってしましたけれど、まるで棒読でした。顔は青ざめて、表情がないのです。探るような目が、野球帽の下から覗いていました。
今、私と、膝をくっつけて、迷子の体験談を呟終えた横顔は、固く拒んでいます。ぞっとするほど白くて、彼女の頬は、どのような詮索をも、干渉をも拒むかのようです。
改めて注意したことがあります。彼女独特の癖です。ほかに誰もしないような瞬をします。うっとりと眠たげで、そのくせ、とても意志的に、瞼をあげさげするかのような、ゆっくりした瞬です。全然、人を不快にはしません。(よく、アメリカの人などが、軽蔑とか、非難とかの気持を籠めて、わざとする瞬がありますけれど、それとは違う。)変に心地好くて、見ている私も眠くなるようです。今にして思えば、彼女は、いつも、この瞬をするのでした。
4/11(月)の記事はまだ続きます。長いので分けて載せます。[編者]
滋子の手書き原稿に忠実な翻字は以下で
http://db.tt/9camnmzj
目次はこちら
http://db.tt/fsQ61YjO