誰かせわしなく扉を開け閉てする物音で我に返りました。いつもの小刻みな足取りでマツバラ女史が入って来るのでした。彼女は遅くなったのを詫びて、今日は『喜びの島』を研究します、いま『喜びの島』をやっているのは貴方がたお二人だけだから、今日から三回、我々三人で研究を進めますと宣言しました。貴方がたお二人はお互い知っていたかしらと、僕を見て尋ねました。僕ははいと答えました。彼女はそんなら早速始めましょうと云って、滋子に弾いてみないかと提案しながら腕を伸ばして鍵盤に向けました。云うまでもなく、僕は滋子が弾くのを聴くのはそれが初めてでした。僕を驚かした事に、彼女は椅子に座ると何の合図も断りもなく音階を弾きだして、暫くそれで遊んでから、今度は気まぐれな和音をあれこれ奏でていましたが、これまた何の合図も断りもなく、本演奏に移りました。ただその事一つで僕は気を呑まれてしまいました。ところで貴方は彼女の演奏をよく御存じです。その夕方の彼女の演奏がどんなものであったか、説明は省きましょう。彼女は一度も止められることなく、全曲弾くことを許されました。マツバラ女史はただ“今のは非常に良かった、”といって笑顔を浮かべました。さて僕の番になりました。御存じかも知れないように、小品は長いトリルで開始します。その冒頭のトリルを行いつつあった僕の右手をマツバラ女史はいきなり抑えて、駄目を出しました。“こんな風に、”と始めの数小節を実演してみせました。その夕方の僕の演奏がどんなものであったか、残りの説明は省きましょう。僕は何度となく止められ、やっとの事でおしまいの最低音を叩き出すことを許されました。アルペッジョは余りに弾き違えが多いので、マツバラ女史は閉口していました。
『喜びの島』は確かに難物です。それで、課せられていたのは通常の三曲で無く、その一曲のみです。滋子がもう一度ピアノに来るように促されました。二度目の演奏中、今度は要所要所で中断して、ここはこんなフレージングにしてみたらどうか、この曲は完璧な出来だから貴方のように可能な限り譜面に就くのが最良なのだけれども、サムソン・フランソワなどはこんな風にやったもので面白いと思わないか、など提案めいた実演を鼻唄交じりにして聞かせていたが【伶門君、あなたどう思う?】と出し抜けに言いました。はっとして二人の顔を見上げました。滋子は例の目です。それよりもマツバラ女史の顔に発見した悪戯っぽい笑みには、すっかりどぎまぎしました。
僕は二度目を弾くまでも無く定刻前に辞去しました。最後まで授業を受ければ、滋子と一緒に自由が丘駅へ歩かなければならなくなります。
僕の親愛なる叔父さん、その夜の事をここに告白するのに垂れた[こうべ]頭を以てするのです。十五才の冬、あの[い]凍てつく夜の血塗られた闘いで閉じ込めることに成功して以来、長い間厳しき鞭もて脅しつけ飼い馴らして来た野獣;[かつ]曾て僕の若い精神と肉体とが相剋の限りを尽くした末、上天に輝いた精神の勝利が、青春に授与した侵しがたい勲章と言うべき ─ そしてあのライターと共に今や一つの記念物に成り下がった ─ 野獣;その飼い馴らされた記念物が揺り起こされたのでした。初めは断続的に、何とも言えず悲しげな啼き声が聞こえていましたが、それはやがて等間隔な規則的な不吉な[うな]唸りに変わり、そのものは臭い息を、耐えがたい獣の臭いを、吐き散らし辺りに充満させ、空気を重くしました。[だいたいこつ]大腿骨に這い上がってくる怪しい地響きと共に伝わる等間隔で規則的な唸りは、もはやライターの如きは玩具同然の虚仮威しだと言いたげです。そのものの息は一段と臭く、空気は一層重く、それの唸りは僕の腰部をぴくりぴくりと引きつらせます。勢いにのってそれは[たけ]哮り立ち、異様な苛立たしさで[おり]檻の中を行きつ戻りつします。そしてその夜、[よ]克く復た勝つを得なかったのです。獣は曾て見た事が無いほど荒れ狂いました。一度はその強迫に屈伏しておとなしくさせても ─ いな、寧ろ一度屈伏してしまったが為にと言うべきでしょう ─ いずれまた勝ち誇ったように起き上がって挑んで来ます。檻を放たれた獣は容易にはその獣性を静められる事を嫌いました。久しく捕らわれの身になって牧草を食むようにさせられていたそれは、[よひとよ]夜一夜、五度六度と肉を割き骨を噛み砕き生き血をすすり、[こら]堪えに堪えてきた空腹を満たすものの貪り方で、唾液[ほとばし]迸る牙を深く僕の臓腑にもぐりこませました。その都度僕の手は汚れに染まってゆきました。僕の手、前日の夕刻、滋子の手を握った手です!
遺書はつづきます。[編者]
伶門のタイプライタ原稿に忠実な翻字は以下で
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