「アニー、ボーに子供あつかいされる場」7月31日、夜十時半頃、山手の家。一階読書室、安楽椅子に掛けて考込んでいるアニー。パジャマのボーが入ってくる。
B:お帰りなさい。
A:ただいま。(立上ってボーを抱締め、長いキス。背中とお尻を撫でながら)坊、可愛い。お姉ちゃんの坊。又ちょっと太ったんじゃない?(本当にふっくらとした感触。初のころとは大違。)
B:まだまだ。お姉ちゃんには程遠い。
A:んん?明日本当に新しい下着を買いにいこう?これじゃ締過ぎよ。膨むものも膨まなくなっちゃう。寝るときにはちゃんと外して寝ている?
B:大丈夫!言われてからはちゃんと取っている!膨まないのは遺伝です。
A:お姉ちゃんがどんなに嬉しいか分る?あー、本当に良かった、痣なんかなくて。良かった良かった。坊は綺麗。坊は美人。坊大好き。Do you love your big sister, Beau?
B:Very much, Annie.
A:How very much?
B:This very much. (ぶちゅー。鼻の擦合。又ぶちゅー。皆さん、馬鹿らしいですか。でも、これが二人の儀式なのです。)
A:ねえ、坊、怒らないでね?
B:ん、怒らない。何?
A:(ボーの左手を取ってそれに接吻)一度お姉ちゃんと整形医院に行ってみようか。仕事を始める前に。
B:でも直らない。
A:んん?きっと何か処置はあると思う。何か被せて分らなくするとか。お姉ちゃんはよく分らないけれど、一度専門の人に見てもらおう?
B:でも、私、もう良い。
A:気にならないの?
B:気にしてもしようがない。
A:でもお客さんの前に出たときに、その、坊が、何というか、その、
B:恥ずかしくはないかってこと?
A:怒らないで?
B:怒らない。
A:平気?坊は。人に見られても平気?
B:平気ではないと思うけれど、
A:じゃ、一遍見てもらおう?ね?お姉ちゃんが一緒に付いていってあげる。(しくしく泣く。)
B:お姉ちゃん、どうしたの?
A:だって坊はこんなに美人で可愛いのに、どうして怪我なんかしたの?あんまりじゃないの。お姉ちゃん悲しい。ううう。おいおいおい。
B:又お姉ちゃんのオイ泣タイム?
A:おいおいおい。お姉ちゃんは坊が大好きなの。愛しているの。一遍行こう?ね、一遍。んんん。おいおいおい。
B:ん、行こう?行く。見てもらう。
A:坊がかわいそう、かわいそう、坊、どうして。えええ。おいおいおい。
B:大丈夫だよ。
A:御免ね、坊、お姉ちゃんが悪かったああ、お姉ちゃんを許してええ。
B:何を許すの!
A:だってお姉ちゃんがひろおきさんを取っちゃった。取っちゃった。折角坊に好きな人が出来たと思ったのに、お姉ちゃんが取っちゃった。どうしよう。おいおいおい。
B:もう、怒るよ?取ってないの!ひろおきさんはお姉ちゃんが好きなの!
A:でも、坊を変な人に渡したくない。又お姉ちゃんが探してあげる。今度は任せて。
B:分った。任せる。あまり期待しないで任せるから探して。だからもう良いでしょう?オイ泣タイム終了。
A:病院にも行くのよ?
B:行く。
A:明日ブラジャーも買いにいこう?
B:ん、買って?
A:坊はお姉ちゃんがきらいにならない?まだ愛している?
B:お姉ちゃん、ひろおきさんにもこんなことをしているの?ひろおきさん疲れるんだろうなあ。
A:生意気を言わないで。彼はこれが好きだって喜んでくれるの!
B:参ったであります。お姉ちゃんも随分疲れているね。でもとても綺麗。いつもよりもっと綺麗。どうしてかなどうしてかな。(ニヤニヤ。)
A:何よ。
B:ひろおきさんは元気だった?
A:元気よ?夕方まで宇治でデートしてわざわざ京都駅まで見送に来てくれた。彼、本当に紳士。絶対に疲れた顔とか暑そうな顔なんか見せないの。電車の切符も何も全部彼が買って、私は座っているだけ。汗を掻かせないようにするの。本当に優しい人。すばらしい人。
B:良かったね。お父さんとお母さんは元気だった?
A:ん、元気よ?お盆には坊に必ず遊びにおいでって。
B:そう。
A:何よ。
B:同じことを電話で言ってた。
A:え?電話があったの?
B:そう。夕方。お盆にはお姉ちゃんに必ず遊びにおいでって。
A:坊、お姉ちゃんをからかって面白がるのね?
B:大丈夫。お姉ちゃんは上野の美術館に行っていますって言っておいた。私、嘘をついちゃった。嘘は泥棒のはじまりだけど。
A:何よ、生意気を言って。何が言いたいの!
B:実家に泊らなかったんなら、じゃ、ひろおきさんの家に泊ったんだ。
A:泊るわけがないでしょう?ホテルよ。駅の近くの。実家は遠いんだもの。
B:宇治よりも遠いの?
A:坊、貴方いつからそんなに頭の回転が早くなったの?
B:お姉ちゃん私を馬鹿だと思っている。
A:思ってないわよ。坊はお姉ちゃんなんかよりずっと賢い。だからいつも負けるじゃないの。
B:私を子供だと思っているんでしょう、まだ何も知らない。
A:思ってない。
B:さっきひろおきさんから電話があった。
A:どうしてそれを早く言わないの?
B:だって、言出せなくて、
A:何だって?
B:特に用はないって。無事に着いたか確めにって。優しいね、ひろおきさんって。紳士だね。良かったね?お姉ちゃん。
A:あー、声が聞きたかった。あんなにすばらしい人が世の中にいるかしら。本当よ?ひろおきさんの良さの十分の一も知らないうちからお姉ちゃん、好きになていた。坊の言うとおりだわ?「ひろおきくん」なんてとんでもない。私って馬鹿ね。いっぱしのお姉さんの心算でいるなんて。今じゃ「滋子ちゃん」って慰めてくれるのよ?
B:良かったね?お姉ちゃん。でも今日は電話の様子がいつもと違ったよお?変によそよそしくて、不得要領で、慌てて切ったりなんかして。何かあったのかなあ。
A:何を言わせたいの!
B:言わせたいんじゃないの。言いたいの。でも言って良いのかな。確信が持てないな。
A:確信って何の確信!何を言うの!変な目で見て謎掛なんかしないで頂戴。
B:おめでとうって言いたいんだけどな。私の思違かな。
A:何のおめでとうよ。
B:お姉ちゃん。私、子供じゃないですよ?
A:分っているわ?
B:じゃ、慌てたり恥ずかしがったりしちゃ駄目ですよ?私、お姉ちゃんの妹なんだからね?いい?私も子供じゃないよ?
A:何?
B:お姉ちゃんが今一番欲しいもの、そういう物があるとする。
A:(恐る恐る)それで?(多分世界が崩壊する寸前の顔。)
B:ひろ、
A:お願お願、もう言わないで。お願。(椅子に倒込む。174センチが147センチになってしょんぼり。ボーの手がアンの肩に。)
B:お姉ちゃん、どうして?隠さないで?どうして隠すの?私、嬉しいのに。喜んでいるのに。凄く嬉しいのに。そうなんでしょう?
A:坊、お願、ちょっとのあいだ一人にして?ね?お願。
B:ん、分った。じゃね?部屋で待っている。
A:有難う。(幕。)
「アニー、世界が崩壊する場」およそ一時間後、ボーの部屋。ボーは安楽椅子で文庫本を読んでいる。ラジカセからは小音量でランパルのフルート、ドビュッシーのビオラ・ハープのソナタ。ドアにノック。
B:入って、お姉ちゃん。(アン登場。ボーの横に座る。)
A:何を読んでいるの?
B:ファウスト、ツルゲーネフの。
A:へえ、そんなのがあるのね。お姉ちゃん全然知らなかった。
B:お姉ちゃんも読んでみる?もう読終るから貸してあげるね?感想を言合おう?
A:楽しみ。米川正夫の訳なのね。お姉ちゃんも絶対に読もう。
B:さっきは御免ね?
A:んん?言ってくれて良かった。(間。)坊、ドビュッシーが好きね。お姉ちゃんも大好き。坊は何の曲が好き?
B:全部いいな。でも夜想曲なんか特に好き。お姉ちゃんは?
A:お姉ちゃんも夜想曲は大好き。オーケストラはあまり好きじないけれど夜想曲は好き。ピアノでは練習曲が好きね。坊もたまに聞いているでしょう?ドレミファソファミレって。
B:お姉ちゃんが弾くので全部覚えちゃった。
A:何番が好き?
B:最初のかな。でも次のも好き。それから三番目も四番目も凄く好き。
A:じゃ、お姉ちゃんと同じだ。趣味がそっくりね。
B:光栄であります。
A:何を言っているの?馬鹿ね。(また間。)ねえ、さっき「一番欲しい物」って言いかたをしたでしょう?
B:んん?御免ね?何でもない。
A:どういう意味で言ったの?
B:んん?あまり考えないでおかしな表現をしちゃった。ドレミファソ。
A:嘘。どういう意味?私、何かが欲しそうに見える?
B:嘘じゃない。言葉の勢で変な言いかたになっただけ。
A:じゃ、何を聞きたかったの?
B:んん?もう良い。
A:良くない。坊には隠事をしたくない。だから坊も隠事をしないで?お姉ちゃんには隠さないで?
B:ん、分った。
A:何?どうして「一番欲しい」なんて言ったの?
B:お姉ちゃん、嘘じゃない。さっきはたまたま変な表現をしただけ。でも、もしもお姉ちゃんにそういう物があるとすれば赤ちゃんでしょ?
A:ん、そうかもしれない。分らない。どうしてそう思うの?
B:私は妹だよ?いい?同じ女だよ?お姉ちゃんのことが一番大切。本当だよ?これ。
A:ん。言って?
B:お姉ちゃんも一人の女でしょ?私、よく分る。
A:何?
B:この前、お姉ちゃん、熱を出したでしょう?
A:それで?
B:お姉ちゃん、その前から急によそよそしくなった。キスの仕方も変った。抱きかたも変った。
A:坊に焼餅を焼いていたもの、ひろおきさんのことで。
B:そうじゃない。お姉ちゃん、正直じゃない。
A:どうして?
B:お姉ちゃんが寝込んでいたときに、一度洗濯機が止ったんだよ?水が入ったまま。
A:え。
B:お姉ちゃんの洗濯物が洗剤に漬ったまま止っていたの。水色のタオルが引掛って動かなくなっていた。私、一度全部出して、
A:お願、黙って、もう黙って。(間)どうしよう。私死にたい。死にたい。
B:大丈夫!お姉ちゃんは女でしょ?人間でしょ?そういうときもある。
A:(めそめそ泣きながら)厭。そんなの。
B:私が知っているだけで誰も知らないこと。私はお姉ちゃんの妹。
A:きらいになったでしょう?こんなお姉ちゃん。
B:お姉ちゃんを愛している。
A:じゃ、いつから、ああ、もう私お姉ちゃんの資格なんかない。
B:ある。そんなふうに考えないで。
A:いつから?いつから知っているの?
B:洗濯機の前から。全部知っていた。
A:どうして。
B:お姉ちゃん、部屋が隣でしょう?
A:何、聞えるの?
B:聴いたの!泣いているのかと思って。
A:私死にたい、どうしよう。
B:死にたい死にたいって言わないの、これしきのことで。お姉ちゃんは大袈裟でおかしい。
A:苛めないで!私、本当に、穴があったら入りたい。坊には分らない。
B:分る。何で?私にはストリップ・ショーまでやらせたくせに。じゃ、私は恥ずかしくないと思うの?
A:それとこれとではまるっきり違う!ずっと軽蔑していたのよ?あんなことをする人はみんな穢らわしいって軽蔑していたのよ?私が仲間になっちゃった。
B:どうして軽蔑するの?
A:とにかくするの!ひろおきさんの顔が見られない。パパとママにも合せる顔がない。
B:じゃ、私が知らなかったら顔が見られるの?
A:見られない!だからずっと悩んでいたんじゃない。ひろおきさんにドアを開けなかったのもそのせいなのよ?
B:今は?
A:だから悩んでいるの!どうにもならないの!ね、信じて?私、ついこのあいだまでそんなことをしたことがなかったのよ?本当よ?これ。
B:じゃ、附いていたものは?今までなかったの?
A:附くの?坊は。
B:附く。
A:嘘嘘、そんなこと。
B:本当!当りまえだもの。
A:でも、坊は、
B:何?私は子供だからそんなはずはないの?
A:そうじゃないけれど。どういうとき?
B:お姉ちゃんにキスされるときもだよ?初のころは。今は慣れたけど。
A:嘘!信じられない。
B:だからちょっと心配したもん。お姉ちゃんは本当はレ何とかじゃないかって。お姉ちゃんは何も知らないの?
A:じゃ、ひろおきさんの隣に座ったときにも?
B:全然。好きじゃないもん。お姉ちゃんは一杯附いていた。
A:何よ坊、全部知って見ていたの?お姉ちゃんのことを。
B:お姉ちゃん、私をお馬鹿さんだと思っているんだもん。
A:じゃ何?お姉ちゃんがひろおきさんを取ったんじゃないっていうのは、
B:そうだよ?ひろおきさんが泊ってからお姉ちゃんは洗濯物が増えるし、夜は泣く声がするんだもん。私とは全然違う。お姉ちゃんは本当に愛しているの!私は少し憧れただけ。と言うか、お姉ちゃんに憧れさせられた。
A:まあ。何てこと?本当?それ。
B:お姉ちゃん、赤ん坊みたい。
A:ねえ、坊、じゃ、坊はするの?
B:しない。でもする人がいるのは知っている。
A:厭だ。私、したくない。
B:やめれば良いでしょ?
A:どうにもならないの!
B:赤ちゃん。困った赤ちゃん。
A:私泣きたいの!死ぬほど悩んでいるの!真面目に聞いて。
B:真面目に聞いている。
A:私、どうしよう。
B:自然に任せればいいんじゃないの?我慢なんかしないで。あとは忘れて悩まなければ。
A:坊、私を軽蔑しているんでしょう。心の中では笑っているんでしょう。
B:お姉ちゃん!私怒る。どうしてお姉ちゃんを軽蔑するの?笑ったことなんかない。
A:もうしない。
B:そんなことを言うのは逆効果なんじゃないの?
A:聞えるんでしょう?
B:気にしない。でも少し静かにしたら?
A:厭!ふざけないで。ねえ、絶対に秘密にしてくれる?誰にも言っちゃ厭。人に知られたら私本当に死んじゃう。
B:私が言うと思う?
A:本当ね?一生のお願。もうしないから。
B:お姉ちゃん、それからね、お風呂場はやめた方がいいよ?通気孔を通って庭まで聞えるから。
滋子の手書き原稿に忠実な翻字は以下で
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