話は少し戻るのだけれども、この少し前、二人でマリンタワーの展望台に上った。由加里は高い所の恐怖で、急に、体を寄せてきた。寄せてきた。由加里 の体。由加里の体。ごめんね由加里ちゃん。臭に困った。悲しい臭。悪い境涯の臭。でも耐えがたい臭。中から涌出て、おなかへ、胸へ、這上って、べっとり脂 が浮いた上をくねくね伝わっていって、体温まで暖まった、甘ったるいような、酸っぱいような、ヨーグルトでナメクジを煮たような。本当に悲しかった。私は 貴方を憎んでいない。本当にかわゆい。だから悲しい。あなた、体をぐいとくっつけた。きちきちにくっつけたでしょう。服の中に溜めていたのを、私、襟の隙 間から吹付けられて顔に直接受けた。私の鼻の下で、襟元が大きくあいて、暖い空気がのぼってきつつむせつつちょっと嘔吐を堪えた位。このときばかりは、御 免ね、坊、あなたが厭らしかった。いつか、あなたの額にくちづけして、頭の脂の臭のちょっと強いのに驚いたのだけれど、でもあのような臭を宿しているなん てちょっとも考えなかった。でも私はあなたの為を思って気を揉んだのよ?ほかの人に嗅付けられやしないかしら、これをとがめられたらどんな思がするだろ う。でもこの混雑だもの、肩と肩が触合うんだから嗅覚の鋭い人はきっと顰蹙している、早く顔を見られないように、早く此処から下りてしまおうって。そのよ うなときだった。やきもきしながら言った出任、それがエリザベス二世号だった。
あの、眼下に見えている豪華客船が、今朝寄港して、横浜市民の話題にのぼっている、イギリスのエリザベス二世号という豪華客船だ、世界的に有名な船 の内部を、横浜市民へのサービスで、今日は、特別に案内してくれるから、私達も、行って、内部を見学させてもらおうと、まったくたわいないことを言った。
いま振返ると、出任を言うにも、あの子が信込んでしまう、意地悪な嘘を、わざと言う必要が、あっただろうか。そんな事をして、何が楽しくて、何が目的で。ひょっとして、由加里を嘲る気があったのか。蔑む気があったのか。
「本当にしたの?」
「本当にしました。」
「ごめんね?この船は氷川丸といって、日本の船なの。今は、もう、海に出ないで、ずっと、此処に繋ぎとめて、中を公開しているわ?有名な船なんですって。太平洋の女王って綽名なんだって。さしずめアマテラス似セ号ってところね?」
「本当にしました。」全然反応はなくて、ちょっと膨れっ面になって言った。
そのあとで、暫く、山下公園を散歩した。途中で、例の像、このあいだ、変な人に、お陰で、一日中不愉快にさせられた像をさししめして言った。「歌で知っているでしょう?赤い靴を履いた女の子。」
「本当ですか!」意外な反応だった。ちょっと窘める口調で。笑ってはいるけれども、薄目を開いて、わざと疑う目をして見上げる。何だか意外で、そして、とても不憫に思われた。
滋子の手書き原稿に忠実な翻字は以下で
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