リモコンを、今取って、レコードをかけたところ。音を小さく。オイストラフとリヒテルが共演したフランク・ソナタのライブ録音。さっきまで由加里と聴いた曲。一人になって、又聴く。
夕食には、クリームスチューを作った。本当は、ボルシチを約束してあったのだけれど、二人とも、物見遊山で草臥れていたから、ボルシチは、次回の楽 しみにして、今日は、スーパーで売っている元を使って、スチューを作った。そうはいっても、二人で、キッチンに並んで、野菜を洗ったり、切ったり、及、肉 を炒めたり、鍋を、火に掛けたりして楽しかった。
夕食を食終ったときには、七時を過ぎていた。それから客間に移ってきた。
デザートには、由加里が買った、喜久家のケーキ。生地に、ラム酒を染込ませて、チョコレートでくるんだお菓子。箱から、二人分出して、私は、紅茶を沸しに、台所に立っていった。
その前に、レコードを掛けた。特に、選んだのではない。採易い右端にあった一枚を掛けただけ。それが、この、フランクのソナタだった。ちょうど今も 聞えている第一楽章の、甘美な旋律に、すぐと、由加里は、魅せられた態になった。物に聞惚れている人の、忘我の面持になった。私は、彼女をひとりにして、 紅茶の支度しに、キッチンに立った。戻ってきたら、第二楽章を、真剣に聴いていた。楽章の終盤に差掛っていた。じっと、身じろぎせずにいた。結の、嵐のよ うな数小節は、瞬だにしなかった。
「何という曲ですか。」第三楽章に入って、ぽつりときいた。
「ヴァイオリン・ソナタっていうの。素敵な、良い曲でしょう。セザール・フランクという人が作ったの。フランスの作曲家ね?今、半分終ったところ。あと、二楽章あるの。とても良い曲でしょう。私も大好きな曲。」
紅茶を注いで、彼女に手渡した。ステレオのリモコンを取って、「もしも構わなかったら、もう一遍始めて良い?私も、長いこと聴いていないレコードなの。坊と、一緒に聴きたいわ?」
坊は、ただ頷いた。ティーカップを、膝に載せて持ち、見おろす恰好で、初の旋律を、再び聴いた。横から、スタンドの光を浴びて、頬のこけた、中高い顔が恍惚とした。
治水由加里。今日から呼名は坊。山形県庄内出身。歳は十八。月が立てば二十歳。辛い十九年だった。ここのつの年、父親の運転する自動車の事故。父親、及母親を亡くした。彼女は、手に、傷を負った。
酒田に住む親戚に引取られたという。どのような苦労をし、どれほどの悔しさを忍んで育っただろう。詳しいことは言わない。
4/3(日)の記事はまだ続きます。長いので分けて載せます。[編者]
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