聞けば、ゲーテ座の舞台裏で、メフィストワルツを弾いていたのもひろおき君だった。幕間に、あの曲を流すのは、ひろおき君の提案で、顧問に言ったら、「では、お前が弾け。」と言って、楽譜を渡された。ところが、尻餅をついたときに、右腕を捻挫したので、弾くには弾いたけれど、ろくに腕が動かせなかった。だから、二日目はレコードを掛けたのだと言う。転んだ晩、先生に、「何をやっているのだ。あの場面で転ぶやつがあるか。今より、お前はジョージ・ゴードンだ、左様に心得よ。」と言渡されたけれど、なぜ、自分がジョージ・ゴードンになったのか、さっぱり分らない。あまりジョージ、ジョージと呼ぶものだから、このあいだ、「先生、なぜ、僕がジョージなんですか。」と聞いた。すると、サドーニックな笑みを浮べて、"Your education has been sadly neglected!"と、にべもない挨拶だった。気の毒なので、私も、ひろおき君には、何も言っていない。本人は、又、そのうちには、新しい綽名が付くだろうと言っている。さすがに坊だ。あの転倒を、直観的に、失敗と見抜いて、いつか、「オイフォーリオンはみっともなかった。」と言っていた。私は、観客の中で、ただ一人、演出の意味が分ったと天狗になっていたのに。
昨日、昼過に、ひろおき君を、家に招いた。NHKホールで話掛けたときは、非常にシャイに見えた。実際にシャイなのだけれど、ピアノのこととか、ホロヴィッツのこととか、色々話すうちに打解けていった。彼は、大のホロヴィッツ・ファン。出ているレコードで持っていないものはないと言う。私が、「ホロヴィッツなら、アンダンテ・スピアナートと華麗な大ポロネーズが好きだ、それから、展覧会の絵とか、ハンガリアン・ラプソディーの二番とか、皇帝コンチェルトなども圧倒的だ。」と、最近聴いたレコードを褒めたら、ひろおき君は大喜して、「同感です。四十代のころの彼は人間離しています。結婚行進曲の変奏曲は、どう思いますか。」と尋ねられた。そういうものがあるのだろうか。My musical education has been sadly neglected.私が、京都の人間と知って、一層、親近感を抱いてくれるようだ。お茶を飲んでから、二人でマ・メール・ロワを連弾した。坊はソファーに掛けて聴いた。それほどうまくはないけれど、音楽が大好きで、そのことになると、シャイなところは消えてしまう。プーランクのコンチェルトを、少しやってみたけれど、これは合わなかった。私が、アップライトを弾いた。ひろおき君は、連弾に慣れていない。サイト・リーディングも得意ではない。今度来たら、 白と黒をやろうと約束をして、楽譜を持っていった。
6/20(月)の記事は続きます。[編者]
滋子の手書き原稿に忠実な翻字は以下で
http://db.tt/M2nc69Pb
目次はこちら
http://db.tt/fsQ61YjO