計算に忙しかった。だから、蝶ネクタイにカットアウエー姿の巨匠が、最後に弾いた英雄ポロネーズなんか、ぼんやりとしか聴いていなかった。ああ、やっているな、変な解釈だな、オクターヴを、あんなふうに、勝手に下げたり、修飾的に付けたしたり、幻想ポロネーズも、さっきのエチュードも聴いていられなかったけれども、最後の曲でも、相変らずやっているな、今の、左手のBフラットは、はったりを通越して愛嬌だな、もしも、可愛いドレスに着飾ったガールフレンドが、うしろの客席から現れて、彼と手を繋ぎ、それを、坊が目撃するとしたら、愛の夢も、幻想と分って、家に帰ったら、赤いジャケットのホロヴィッツで、お口なおしのコンソレーションDフラットだな、エチュードの3番は、お姉ちゃんが弾いて聞かすのかな、修飾なしに。
ところが、彼は一人だった。
巨匠が、アンコールはやらない意味で、鍵盤の蓋を閉じてしまい、袖に退くと、聴衆は、席を立始めた。彼は、まだ座って、プログラムか何かを読んでいるようだった。坊は、生れて初てのコンサートに感激して、巨匠が、もう一度現れるのを待って、袖に目をやって、拍手を続けていた。バイロン卿は、どう見ても、連がいるとは思えない。けれど、もしも、何処か離れた席に・・・えい、ままよ、もう、ひとりでに、足が、彼の席に向っていた。「今晩は。」と声を掛けたら、彼が見上げた。目を皿のようにして、ひと言、「あー、どうも。」「今日は、お一人でいらっしゃったの?」「えー、まー。」「お隣、よろしいかしら。」と言って、隣の席に掛けた。「私、鎌田滋子と申します。先日は失礼を致しました、キクヤの二階で。覚えていらっしゃるかしら。」「はー、どーも。」と言って赤面。
6/17(金)の記事は続きます。[編者]
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