4/2(土)
続けて言った。
「僕の中の絵描は、美しい対象物として見る貴方に引かれました。是非、あのポーズで、写真をとらしてもらいたかったんです。それで、声をお掛したんです。
でも、勿論、それだけではありません。それを、下心と呼ぶのなら、下心があったのも事実です。僕の中の、孤独な男が、いとも寂しげな表情を浮べて眺めている麗人に出会って、異性として見る、その人に引かれたんです。
それが悪いことですか。男が、女に引かれる心は下心ですか。あのときは、あそこで、すげなくあしらわれた貴方に、再び、ここで出会った。正直言え ば、僕も、気い付かん振して、そのまま行てしまおうか迷いました。僕かて、誇いうか、プライドいうか、そういうもんがあります。勇気出して話掛けた相手が 取付く島もなしでは、自尊心が打砕かれます。でも、貴方の方では、僕に気付いていたし、そのまま行ってしまうことはできませんでした。恥をかく覚悟で、ま たぞろ、貴方に近付きました。案の定、今度は、口も利いてもらえず、下を向かれた。そのときに思ったのですよ。旅の恥なら、二度かくも、三度かくも同じこ とだ、こうなったら、道化にでも、ピエロにでもなったれとね。
僕は、特に醜いわけでも、臭いわけでもないと思うのに、こんなに、誠意を示しているのに、なぜに、この人はこうなのか。しかも、こんなに驕慢な態度 を示しながら、それでいて、少しも変るところのない、寂しげな、何かを求めるような、目の表情は何故か。寂しくて、何かを求めている点は、僕も同類なの に。この上は、どうでも、この人と、話がしたい、そして、僕の言動のわけを聞いてもらおうと、そう思ったのです。
とまー、結局、全部聞いてくれたんですから、あとは、コーヒーの一杯位付合ってくれても良さそうなものじゃありませんか。」
言うとおり、決して醜くはない。美男子にも見える。誠意のほどは疑しいけれど。
「そちらの言分は、良く理解しました。でも、やっぱり、貴方は、失礼な方です。おしゃることは身勝手で、一方的です。私が、今、こうしている時間は 貴重なんです。貴方のお相手になる為の時間ではありません。貴方も、芸術家なら、一人で過す時間の大切さはおわかりになると思います。それから、貴方の被 写体になることは、やはりお断したでしょう。見ず知らずの方に、写真を撮らせることは、契を交した人も嫌うでしょうから。」
ベンチに、コーヒーを置いて、其処を離れた。歩きながら、思わず赤面した。「誓を交した。」と言うべきだったのが、「契」と言ったと気が付いて。先週の土曜日は、それから、ずっと、むしゃくしゃした。
一昨日、それは三十一日の木曜日の日に、由加里が、前触もなく訪ねてきた。わだかまりはないようなので安心した。東京言葉の家庭教師をしてほしいと言っている。また、明日来る約束。今度こそ、ボルシチを作ろうね。
滋子の手書き原稿に忠実な翻字は以下で
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