3/31(木)
続。その人は言った。
「そんなに、眉間に、皺を寄せることではないと思いますがね。第一、貴方に、怒った顔は似合いませんよ。僕が、貴方を不愉快にさしたのは謝ります。でも、悪気があったのじゃない。ここで、偶然、又お見掛したから嬉しかたのですよ。そんなときに、わざと知らんぷりして素通したら、それこそ、女性に対す る礼儀を忘れているでしょう。貴方のように美しい人が物思わしげに、外人墓地の空を眺めている。あれは、一幅の絵のようだった。貴方に、お連はなかった。 僕も一人でした。あそこで、貴方に声を掛けはならない理由はあるでしょうか。いえ、むしろ、掛けて当然です。僕、今日、観光しにきたんです。横浜は初てな んです。知らない土地です。ほんの少し、心細い気がした。旅情とか、旅心とかいうやつかもしれません。そういうときに、貴方をお見掛した。この人も、きっ と、侘しさに囚れているんだろう、あの、遠くを見る目えの、何と憂に満ちて、美しいことか。
種々雑多な人々が行交う山手通の週末の賑。子供がギャーギャー言って走回る、楽しそうな家族連。手をつないで歩く、学生風のアベック。人目も憚らず 抱擁する外人連。黒ずくめの法衣に、頭巾を被った、キリストの尼さんらは、超然として墓地の門を潜る。でも、貴方の周囲だけは、ほかと違っていた。貴方は、一人、世の中から隔絶したように立っていた。僕には、それは、一幅の、感動的な絵でした。
実を言うと、僕、絵描なんです。いえ、絵描を志していると言った方が本当かもしれん。今年、やっと、大学を卒業して、四月ら、九州の高校で、美術教 えるんです。入る前二浪したし、入ってからは、アルバイトするのに忙しくて、もう二十六です。だから、横浜は、駅を利用することは、よくありますけど、この辺は初てなんです。まー、そんなことは、どうでもいいんです。とにかく、僕は、貴方を、外人墓地の所で見て、心を引かれたんです。」
滋子の手書き原稿に忠実な翻字は以下で
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