美人説
折しも生あたたかな小雨が降りだした火ともし頃、元町公園の木木をくぐってセント・ジョセフの急坂に差し掛かった。由加里は登ってこぬ
2006年3月12日、横浜市中区山手、外人墓地は目と鼻、歌に歌われた港の見える丘は歩いて5分という所にわたくしはいる。この小高い丘の上を、明治期ここに移り住んだ外国人は、ブラフと呼んだ。断崖絶壁を意味する。こんにちの山手は、建物が視界を塞ぐいっぽうで、何を指し「断崖絶壁」と云うのか、ぴんと来ない呼び名ながら、例えば百、いや、百二十年百三十年前のこの日この時刻、雨が降らなかったと仮想する。うそ寒い春の一日が終わろうとして西の空の雲間より入り日がさす。桜はまだつぼみの、わずかに散りのこった白梅がさかりの過ぎた香を漂わす夕暮時、たまたまこの場所にたたずむ者があったとしよう。ちょっぴりうら悲しくて花やいだ気分にひたっていた佇立者は、かっと照らし出される東の方角へ目を転じる事をしたかもしれない。眼前に東京湾を見、20キロばかり水を隔てた対岸、姉崎・袖ヶ浦・木更津・君津・富津と、房総半島沿岸にあって、現在ではそんな地名で知られる嘗ての漁村やら、宿場やら、港町やらが、恰も暮靄に浮かぶかに眺められる
或いはそうで無かったか。目の前は岩が転がり地がうねり、その上、松の疎林が邪魔して、やはりこの位置では見通しが利かなかったろうか。それならそれで結構、どっちにしたって話は同じだ。幾らか動けばよい。歩数にして五百か六百、そんなものだろう、岸壁がたへ近づいてみよ、必ずその者は今思い描いたとさまで変わらぬ映像を目にした。というのは、もともとこのへんは東京湾へ突き出る高台だったので、「断崖絶壁」としたのは正にその通りなのだった。時代が新しくなってもブラフの名称は外国人居住者の間で用いられる。Bluff No.85、と書けば、わたくしが足をとめた地面を指す。日本式には、山手町85番地
言うように最近では物が建って、指摘されないと海を控えている事実さえ忘れるくらいだ。ヨーロッパ風の邸宅が集まる住宅街のそこここに、喫茶室とレストランの類が店を構え、アクセサリーだのおもちゃだの小銭入れだの、ちょっとした何かを売る店屋が看板を掲げ、教会が建ち、マンションが建ち、マンションが建ち、お堂の尖塔が聳えたち、見上げればアラベスクに張った電線が頭上を覆い、マリンタワーの赤が目に染み、歩を移すにつれタワーはビル隠れし、公園があり、庭園があり、マンションがあり、墓地があり、十字架が立ち、塔婆が立ち、マンションが建ち、学校があり、また学校があり、宿泊施設もあり、劇場もあり、近代文学館もあり、テニスコートもあり、駐車場もあり、となるほどバラエティーには事欠かない街並みであるけれど、しかし何と云っても山手の名物は洋館だ。わたくしは此処85番地にいて、直ぐ其処に「エリスマン邸」を見ている。無料で中を覗かせてくれるそうだ。「山手111番館」「山手234番館」「ブラフ18番館」「外交官の家」「イギリス館」「ベーリック・ホール」 ・・・・・・ これらも料金が掛からないと、駅でもらった案内書に書いてある。ほかにも、ただとは行きかねるが一般公開中のものに「山手資料館」があり「山手十番館」がある。前者は、字のごとく山手の昔を懐古したい人の為の品々を陳列する。十番館の方は、これはそもそもレストランであるにつき、飲食する人に限って入館を認めている
山手はまた女の子の街だ。平日は二度、朝と夕と、駅を中心に丘の上一帯へ掛けて蟻の群れかと惑わす女学生でにぎわう。「駅」とは、降りたら窓口で洋館案内を手に入れたい、JR根岸線石川町の駅に外ならない。恐らく一度や二度は耳にされた覚えがありはしないだろうか、俗説に従えば、日本国に存する駅舎で女学生の利用率がナンバーワンであり、子供時分よりそう説かれていたとわたくしも記憶する。わたくしは説を支持するものの、ここで注意したい点は、旧の石川町とだいぶ違った、と云うのがつまり、彼女らの傍若無人ぶりの行き届いたことで、物は試しだ、ひとつ呆れてみる。ちょいとこんなんだ。制服姿の子がひとり、ホームへ続く長 ~ い階段を登る。登る。登る。胸に感ずる曰く言い難い面倒臭さは、おのれの脚すらもうざいと聞こえたげな、不貞腐れたみたいに引きずる踵の音でも察するにじゅうぶんであるが、その大きななりだと高校生だろうか。ようやっと登ってざッと見渡す。ちょうラッキー!ベンチがあいている^^ つかつか寄る。荷物を放り出す。どっかり腰を下ろす。しばし踏ん反り返る。思い出した様にかばんを引き寄せ、何はさておき携帯(電話)を調べる。そいつを仕舞う。かばんを脇へやる。いま少し踏ん反り返る。心ゆくまでそうしたら、うざったそうに、もう一遍かばんを引き寄せた。手を突ッ込んでゴソゴソ言わせている、のは、やがて出てきた手鏡、並びに女の子の七つ道具、お化粧が始まるのだった
ベンチの向こう端、人が聞くのも知らず顔で携帯(電話)の相手に艶笑小咄を披露するミニスカートばきの蛮カラさん、で、一応はそれが制服である建前だ。この際、はいた物のちぐはぐさ加減は問題にしない。するだけ野暮、今や制服にユーモアの要素を取り入れているのは山手も山形も無い、国じゅうがそうなっちゃったのである。それはよいにせよ、あの小咄ばかりは感心できない。なぜと云うのに、昨晩の逢瀬は敢えて避妊法を用いるを快しとせず、なんどのコンテンツを発信するばやい、衆人環視の中でけらけら笑いこけて言い散らそうとは、たとい時代の寵姫となったジョシコーセーでも、親の名、学校の名を辱めかねない不行儀なやり方だと断じざるを得ないので、そういったことは、おなじ携帯(電話)を使用して発信するのにしても、うちに帰り、二階へ駆け上がり、自室に閉じ籠もり、鍵を厳重にし、押入れに奥深く隠れ、ひそひそと発信するのが、含羞初々しい破瓜乙女の発信マナーなのである。その発信器と来た日には、ぴこぴこ響く信号音の絶え間なさにつけ、学生の癖に皆どんなようがあって片時も手放せないらしくするのか、未だに自宅の黒(の親子電話)で間に合っている人間には見当が付かないけれども、嬌声さんざめくホームの着信音会話音ぴこぴこ音と云い、発育期に出す旺盛な体臭と云い、体臭がシャンプーの安香水と混ざり醸される一種独得の蒸気と云い、登下校の時たるや、風景は各位に御想像願ったら善いとして、そう云うふうである彼女らを除く、これは特別に身持ちが良い方の、優等生が通う学校を数校挙げるとすれば、たとえば共立学園と云うのがある。フェリス女学院がある。それと、横浜学院があった。女子商業学園と云うのもあった。雙葉学園の名は外せまい。まだ他にあるかしら。とにかく、それだけの生徒が毎朝ひとつ丘の上へやって来る。『山月記』『李陵』の作者中島敦が英語教師をしていた ─ 校名を何と云ったか ─ も山手にあったと聞く。そうした狭い、丘の街を、メイン・ストリートと云うべき、一筋の道路が縫って走る。山手本通りと云う。その正規の起点と終点とを知らない。エリスマン邸が見える此処85番地を暫く行くと、結婚式で名高い山手カトリック教会に至る;確か、門前に ・・・・・・ 古い記憶だもので自信はないが、門前に「山手本通り」を標示する案内板が出ていたように思う;今、仮に教会付近を起点と定め、港の見える丘公園のバス停を終点と考える。およそ千メートルの道だろうか、うねうねとして絶えず蛇行しながら、とくに大きな曲がりが二つあるのを、先ず二つ目を記せば、外人墓地の入口あたりでグイと、港の見える丘へ方向を右にとる曲がり。そして一つ目が、わたくしのいるセント・ジョセフ、85番地の曲がりだ。ここでは通りが左に湾曲する。横断歩道が渡してあり、そのあっちが元町公園、こっちがセント・ジョセフ、わたくしは先ほど、公園の木木をくぐり横断歩道を渡ったわけで。見れば、ここをてっぺんに急勾配の坂道がおりている。セント・ジョセフの急坂に差し掛かったと書いた、その坂道だ
ところで、セント・ジョセフと云うのは今はない。正式名 Saint Joseph College は、1901年、フランス人マリア会修道士の創立になった。男子のみの学校である。多く外国人子弟が通い、美術家のイサム・ノグチや宇宙物理学者ヤーマード・ゲッチャム博士らの学んだ校舎は、同時に修道院の役割をも担った。日本で布教する宣教師が共に寝起きし共に祈るカトリックの道場だった、と云う一面を併せ持っていたとするなら、生徒のための寄宿設備等が兼用されていたとしても、それは当然そのはずで、またいきおい、そこに暮らすイルマンは、宗教生活を営むかたわら教壇に立ち、学科の教授にあたったので、ながく山手にとどまる事にもなったようだ。再び故郷を見ずにこの地で歿した者も少なくない。骨は外人墓地に眠る。敷島のやまとの國のさ丘べにとはにいねむと誰が思ひけめ。2000年5月、最後の卒業生十三名を送り出すと、学校は閉鎖され、やがて、寮であったベーリック・ホール以外は残らず解体された中に、往時、坂上に立っていた小さなチャペルが在って、日曜日の朝など、横浜港に寄った船員が、信心家なのに違いない、とんがり屋根に頂かれた十字架を仰いで足をとめる。ふと門を見入れれば、自分と同じ目鼻立ちをしたお坊さんがてんでんに立ち働く。船乗りは鐘を鳴らす。お参りさせて欲しいのだが、と案内をこう場面にしばしば行きあわせたものだ。そう云う、鐘を鳴らさんがごとき信仰篤き客人は、帰りしなに蜂蜜の入った小さな壺を、お土産にと手渡される
今は大きなマンションが在る。従って、この坂を指して云うには「大きなマンションの急坂」とするのが正しいのだろうけれども、便宜上本書では「セント・ジョセフの急坂」と呼ぶことにしたい。1983年頃、確かにセント・ジョセフの脇をおりる坂道だったので、滋子の日記にもその名で出ている。1983年3月22日夕刻、滋子はセント・ジョセフの急坂をくだりつつあった
滋子とは、第2章『己呂武反而』の書き手だ。姓は鎌田、当2006年をもって四十八才、この時間、京都大徳寺に近い実家にいる。重い病にかかって寝ている。1958年の12月2日に、滋子は京都で生まれた。山手に育ち、青春を山手で過ごした。暮らした家は以前のままにしてある。実は、わたくしが向かっているのもその家 ・・・・・・ 坂をおりて、昔どこぞにしまったと云う一冊のバインダーを、本人の依頼を受けて探しに行く
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中間部分にあたる 【坂に至るまで 及び美人説】【坂を下だって】【滋子の家】 はそれぞれ改訂中
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【 川崎へ 】
セント・ジョセフの坂を下だった所の丁字路、「北方」小学校の門のそばに、確か横浜市営バスの停留所が見えたっけが、そこで乗ることにして、五十分前に来た道を逆に辿った。日はとっぷり暮れている
停留所の前へ来る。見れば、それは20番バスのだ。道路のこっち側、小学校側に立っているのが、山手行き、とすると、あっち側に立っているあれは横浜行きの筈である。ならば横浜行きにしよう
このあと私は川崎に行く。小林牧師を訪ねるのである。滋子に二つの事を頼まれている。今、一つ済ました。一つと云うのが、彼女の家に行ってバインダーを取って来る事だった。牧師の所では二つ目を片づけたい。バスが来た
来てハッと気が付いた。滋子の地図を返して貰い忘れた。電話を掛けて呉れるように頼みながら渡した紙切れ、なんともぼんやりであれをYさんの手に残してきた。実はあれに、牧師宅の電話番号が書いてあった。今日、家を出る時、牧師に何年ぶりかで電話した。首尾よくバインダーが見つかった場合、なるべくならその足で牧師に会いに行きたかったので、予め先方の都合を確かめておこうと、古い手帳を繰って調べた電話番号を、黒でダイアルするまえ地図にメモした。Yさんが滋子の積もりで掛けた相手は、ところがどっこい川崎に住む小林牧師だったので。さぞ二人はとんちんかんな遣り取りをしたことだろう。番号と云えば、あの地図にはもう一つ番号が書き入れてあった。それは私が書いたので無くて滋子が書いたのだ。門に巻いたチェーンの番号。まあ、チェーンはそのうち取り替えに行かねばなるまい。錆び付いて外れなくなる前に
それと、バスの行き先も違っている。横浜駅に行かないで、埠頭に向かうらしい。運転手に聞いたら路線が変わったとか。以前、このバスは山手駅を出て港の見える丘公園を経由し、横浜駅へ行っていた。小学生の私が滋子に連れられて乗るのも、考えてみるとこの20番バスだった。お屋敷へ遊びに行くのに横浜で乗って港の見える丘公園で降りる。三十年も前のことだが。仕方なくタクシーを拾って横浜へ走らせた
車の中で例の物を出して見る。黒い表紙で綴じ、おもてに表題ないし用途を書き込む白いシールを貼っている。それへ横書きで「己」「呂」「武」「反」「而」の五文字。滋子の字だ。表題だろうか、それとも何かの御まじないだろうか
中身はルースリーフ紙が百五十枚程度、相当な分量だ。青い字で罫線が隙間なく埋まっている。陀羅尼めいた表題の五文字と同じで、本文も青の万年筆で書いたものらしい。全部横書き。窮屈そうな、細かい字で書いてある。滋子は体は大柄な女だけれども、体格に似合わず、字は可笑しいくらい小さく書く。癖は昔も違わなかった。横浜駅の交番の椅子に座らせられた日、おっかない背広の刑事相手にああ云う、十六才の少女らしからぬ悪戯をしながら、「鎌田滋子。鎌田なほみ。」と書いたその字は妙に小さく、そう云っても流石に警察官の前の事で内心は縮み上がっているのだろうかと、使いおわった鉛筆をかたッと置いた、その大きなお姉さんの手先が震えるのを見て、子供心にもそう思ったのだったが、実はそうで無かった。毎年呉れる年賀状も、いつもこの活字並みだ
車内を照らす街の電灯を頼りに、難儀して最初の一枚を読んでいると、にわかに窓外の明るさが増したようなので駅に近づいていると知れた。桜木町の駅だ。行き先変更、降ろしてもらおう。電車に乗り換えたほうが早い
京浜東北線は吊り革にも掴まれない混み様である。バインダーを開くことが出来ない。私は『己呂武反而』の続きが見られない。でも読者には見て頂くとしよう。牧師宅での話は第3章で続けましょう。なお、滋子の原稿は、誤字脱字と思われるものも本のまま翻印する
編者の天野なほみです。
序章にあたる『美人説』は、ネット掲載のための改訂をしている最中ですが、出来たところから公開することにしました。(外人墓地の写真以下がそれです。2006年にわたくしが書きました。順次足してゆく予定でいます。)続けて、本体である『己呂武反而』『遺書』『跋文』をも見てくださるように、お願い申し上げます。1982年11月に起こったのがどんな事件だったかは、序章が部分的だとしても、ほぼ推察されるとおりです。
『己呂武反而』は、滋子自身が書きました。『遺書』は、婚約者だった小林伶門が書きのこしました。(前者の標題である己呂武反而は滋子によるものです。後者には、その性質柄、もともと標題がついていません。)
滋子の原稿は特殊です。体裁の上で色々と制約が設けられる一般投稿サイトに、必ずしも馴染まない。ほとんどがルーズリーフ紙にペン書き . . . あとになって思い直す。赤インクを入れて訂正する。そうした跡なんか、どうすればいいか。
問題を解決するために、ウェブページ化することを考えました。PDFにもしました。
せっかくですから、もとにちかい形で読んでいただけたら幸いです。
http://db.tt/pJ1syH7y (アクセスできないとの指摘があるので、対策を考えます)
2023年1月28日