その二
「おや、またそのように顔を曇らせていらっしゃるんですか?」
「物の化……あれからまだ一日も過ぎていない気がするのだけれど」
「昼間にお会いしましたね。二、三日は会えないかと思っていたのですが、……つくづく私は運が良いらしい。日頃の行いが良いせいですかねえ」
屋敷の者が寝静まった夜更け。今なら誰にも見咎められないと思って簾を少し上げて、月明かりを頼りに庭を眺めていたら、いつの間にか隣に物の化が座っていた。
「で、今度は何をしに来たの?あまり長居し過ぎると、今度こそ清明様に調伏されてしまうわよ?」
「私は物の化ではなく、桜の化身ですって。それに、姫君が私を呼んで下さったんじゃないですか」
「呼んでなどいないわ」
「おや?ですが、入口を作って下さったではないですか」
「入口?」
きょとん、とオウム返しに応える私を見て、物の化は何を思い出したのか、渋い顔をする。ああ、元の作りが良いと、そんな表情も様になるのね。
「物の化?」
「ですから、違いますって。しかし……うっかりしていました。入口の作り方、そういえば説明していませんでしたね。うーん、それでも、あの化け狐の子の結界の隙間から侵入出来る私って、やはりなんと運の良いことか」
思考の迷宮に入ってしまったらしい物の化に、なんとなく置いてけぼりを食わされた気がして、物の化、と呼ぼうと口を開き、声が出なかった。
不覚にも、見惚れてしまった。月明かりの元で見上げる夜桜のように、見る者の目を奪う。桜の化身なのだから、綺麗で当然なのだろうけれど、美しい、と思う心を止められない。心を奪われる、という物を体験してしまった。
「姫君?」
「なんでもないわ……それで、何をしに来たの?」
なんとなく気恥ずかしくて、つい、つっけんどんな態度になってしまう。冷た過ぎたかしら、とも思ったけれども、物の化の様子をそっと伺えば、気にしている様子は、ない、わね。
「何をって、姫君に会いに来た、それ以外にありませんよ。ほら、男が女の元へ通って致すことといえば、一つしかないでしょう?」
やっぱり、先程の態度を気にしていたのかしら。少しだけ、意地悪そうに笑って、私の髪を一房手に取り、唇を落とす。なんというか……むずがゆい。それを悟られたくなくて、私は冷静な声を心がける。
「それ、当てはまらないわよ?お前は確かに殿方だけれども、物の化だもの」
「物の化、物の化ってその扱い、酷くないですか?」
「そう?」
「うーん。やはり姫君は、桜がお嫌いなんですね」
「は?」
桜が嫌い?私が?今、すごく話が脱線したような?
「物の化?」
急に背を向けられる。はしたないとは思ったけれども、なんとなく放っておけなくて、覗き込んだら、別に構わないんですけどねーと語尾を伸ばしながら小さく「の」の字を書いている。いじけて、いるのかしら、これは。
「あの……物の化?」
あ、無視された。なにかしら、この物の化。見た目は二十代前半の見目麗しい殿方なのに、やっていることは童みたいな子どもじみた……拗ねているの、よね。
「いつ、私が桜が嫌いだと言ったかしら。本当に嫌いなら、こうして眺める事もしていないと思うの」
「嫌い……では、ないのですか?」
「好きよ。美しい、と思うわ」
「では!では、何故姫君はそのようなお顔で眺めるのです!」
「どのような顔?」
「忌々しいものを見るかのような、そんなお顔です。私は、ここから少し離れた、今はもう廃れてしまった屋敷の桜なんですけれども。他の桜が言っていたのです。自分たちを憎々しげに見る姫君がいる、と」
「ああ、それで珍しい姫、と言ったのね」
確かに珍しいかもしれない。美しいと桜を眺めることはあっても、私のような貴族の姫はいないでしょう。
「ですが、姫君は桜が好きだと言って下さった。では、では何故、そんなお顔をなさるのです?」
「お前、おせっかいな物の化ね」
「桜の化身ですって。まあ、話したくないのでしたら」
「自分の身の上に重ねてしまうからよ」
やけにあっさりと、言葉が出た。誰にも吐露したことのない、この思い。物の化、だからかしら。物の化は、私達ヒトの理に縛られないから。
「桜の花弁がどこに行くかなんて、風まかせでしょう?ひらひら、ふわふわ。花弁はどこに運ばれるかわからないのよね。私も、同じ。自分一人では、決して生き方を決められない。私の進む道は、いずれは有力貴族の北の方か帝の元か。全て父様がお決めになられる……でも、私は」
不意に口元に手を押し当てられて、言葉を飲み込まされる。触れた手は冷たくて、人としての体温を感じられないのに、何故か落ちついた。
「物の」
「静かに」
「え、あ、無礼も」
暴れようとしたら、今度こそ本当に口を塞がれて、ずるずると部屋の奥に連れて行かれる。
「姫様?一の姫様?」
「彼女は、姫君付きの女御ですか?」
ろうそくの灯りで、簾にぼんやりと浮かんで見える人影。物の化の意図が分かって、こくりと頷いたら、物の化は少し乱暴でしたねって笑って、口元から手を離してくれた。
「聞き間違いだったのかしら」
ぼそりとそう聞こえて、灯りが遠ざかっていく。
「気をつけなくてはいけませんよ。私の姿や声は、姫君にしか見聞きすることが出来ませんが、姫君はそうではないのですから」
「なんだか不公平だわ」
「仕方ありません。姫君は人ですから。そう、人の生は私達と比べられない程に短いんでしたね。姫君はお幾つですか?」
「十五よ」
「ああ、なるほど。確かに、そろそろ人の女ならば嫁ぐ年齢ですね。一応、何不自由することもないと思うのですが?」
「それでも、絵巻物のような恋物語に憧れるのよ。ないものねだり、というのかしら」
そう、ないものねだり。叶う事はないと分かっていても、願ってしまう愚かな望み。この生活は、貴族の姫だからこそのもの。貴族の責務を果たさずに享受することなんて許されない。
「ふむ……別に、姫君さえ良ければ、実現可能ですよ?なんなら、私の北の方になりませんか?」
今、なんて言われたのかしら。北の方?
「私は桜の化身です。人より遥か長く生きる。姫君の事は気にいりましたし、数十年なら、姫君とその恋絵巻みたいなものを演じても……姫君?」
物の化はまだ何か言いたそうにしていたけれど、それを無視して私はそっと清明様より頂いたお札を取りだす。あ、逃げた。
「物の化?何故そんなに遠くへ離れるの?」
「それはですね、姫君の逆鱗に触れた事に遅らばせながら気付いたと申しますか……とりあえず、しまって下さい。私の精神衛生上、非常に宜しくないのです」
「やっぱり、効くのね。清明様は、タチの悪い物の化に使いなさいって下さったのだけれど」
「桜の化身にも効きますよ。物の化だと、もっと効くでしょうけれど」
ですが、と言葉を続けて、物の化は何を思ったのか、ひょいっと札を私の手から取り上げる。
「え?」
「ああ、やっぱりあの狐の子が作っただけあって、嫌な札です」
物の化が触れた先から、どんどん青白く燃えていく札。熱くないのかしら。
「大丈夫、なの?」
「はい。あちらも、手は出すなよ、という意味合いで姫君に持たせたのでしょう。事実、姫君が札を出すまで気付きませんでしたし。さて、と。そろそろお暇致しましょうか、姫君」
「桜の枝、ね?枯れかけているようだけれど」
はい、とどこから取り出したのか、一振りの桜の枝を手渡される。
「枯れてなどいませんよ。数百年程咲いていないので、そう見えるだけです。これ、庭に植えてください。姫君が直接簾を上げて招いて下さっても構わないのですが、それだと桜が散り終えるまでの期間限定になってしまいますから」
「ふふ。物好きな物の化、ね」
くすりと笑って、桜の枝から物の化へと視線を移すと、そこにはもう、物の化はいなかった。
ありがとうございました。