その一
ふわり、ひらり。
彼と出会ったのは丁度一年前。
ふわり、ひらり。
風に流された薄紅色の花弁で、屋敷の庭が優しい色に染まる、桜の季節。
簾越しにぼんやりと庭を眺めていたら、風の悪戯で簾が揺れ、開いた隙間から、薄紅色の迷子が一枚。
「あっ」
「ごきげんよう、姫君。姫君は、桜がお嫌いなのですか?」
花弁に手を伸ばそうとしたら、風もないのに花弁が舞いあがり、それを目で追っていくと、いつの間にか知らない殿方がいた。
どこぞの名家の姫君かと間違えてしまいそうな、鈴のような軽やかな声。
気付かなかった。
いつの間にいたのだろう。
いえ、そうではなくて。
「ああ、申し訳ありません。驚かせてしまいましたね」
そう言って、どこか儚げに微笑んだ殿方の髪や瞳は桜色。
私の夜色の髪や目とは違い過ぎる、人外の、色。
「ええと……まだ、逢魔ヶ刻ではないと思うのだけれど。お前、時間を間違えたの?」
恐怖を感じるよりも先に、呆気にとられてしまう。
自分でも、どこかずれた事を尋ねたと思ったら、笑われた。
まさか物の化に笑われるとは。
「お前、失礼な物の化ね。陰陽師に調伏される前にお帰り」
幾分か口調を強めて言う。それでもまだ、肩を震わせて笑う物の化。
なまじ整った顔立ちなだけに、むかむかしてくる。
じと、と睨みつけてやると、申し訳ありませんと小さく詫びられた。
物の化に謝罪されるだなんて。
「いやあ、あの子達がですね、左大臣家にとても珍しい姫がいると言うので、連れてきてもらったのですが……なるほど。貴族、という人種はろくでもない者達ばかりだという認識を改めなければなりませんね」
「ええっと、何?物の化、お前、私に会いに来たの?しかも、連れてきて貰った……って?」
「はい。あの子達に案内してもらいました」
あの子達、といって庭を指差す。
けれど、庭には桜の花弁が舞うばかりで、誰もいない。
「どこにいるの?」
「どこって、ほら、庭全体に。流石は帝の覚えもめでたい左大臣家の庭ですね。桜で埋め尽くすのはちょっと無粋なくらいに見事な庭です」
「桜の花弁?お前、どこぞの桜が化けた者なの?」
口にしてみて、納得する。髪や瞳の色からしてそうだろうし、部屋に入り込んだ花弁は、いつの間にか消えてしまっている。
「物の化って、綺麗なのね。私、初めて見たわ」
「うーん、なんとなく否定しそこなってしまいましたが、私、物の化ではなく、桜の化身です」
「あら、どう違うの?」
「どうって……そうですね、私は夜以外も活動出来ます」
「他には?」
「さあ?気が向けば惑わしますし、喰おうと思えば人も喰らいますが」
「物の化じゃない」
「違いますよ。ほら、私、結界の中を入ってこれましたから。まあ、感知されてしまったようですがね」
「感知?ああ、では、清明様がこちらにいらっしゃるかしら」
私は、上流貴族の姫。藤原道長の娘。帝のお傍に父が近づけば近づくほどに、上へ上がれば上がった分だけ。地位や名声、権力を得て行くのと同時に、多くの妬みを買う。それは呪詛をかけられる、という事で。
「この結界、阿部清明が張ったのですか?どうりで、人が作ったにしてはよく作り込まれていると」
「清明様は、都で一番の陰陽師だもの」
「はあ、好奇心に負けた自分が恨めしい。次からは、もっと注意します」
「また来るの?」
「はい、姫君は退屈していらっしゃるんでしょう?入口を作っておいて下さい」
「入口?あ、待って」
微笑まれて、たんっと軽やかな足取りで外へと向かう。思わず手を伸ばした、そのずっと先で、物の化が、ぱんっと弾けた。
「きゃあ!?」
ぶわっと広がるようにして巻き起こる花嵐。咄嗟に目を閉じてしまって、次に目を開けた時にはもう、物の化はどこにも見当たらなかった。
「姫様! 一の姫様!」
それと同時に私の部屋に駆け込んでくる乳母。
「一の姫様、これは?」
「置き土産、かしら」
最近、すっかり白髪が目立つようになった乳母は、幼少の頃から私の面倒を一手に引き受けてくれる信頼できる人。父にとって、だけれど。
おろおろとしている乳母は、何が起こったのか理解できなくて、なんともいえない表情を浮かべてる。その事に、少しだけ先程の残念だった気持ちがうまい具合に自分の奥底に隠れて行くのを感じながら、そっと微笑んだ。
「大丈夫、ただの桜の花弁よ。庭を眺めていたら、強い風が吹いてきたの」
「まあ姫様!あまり簾に近づいてはなりませぬと!姫様はこの藤原家の」
「藤原家の一の姫。いずれは帝の御前へとあがる身なのですから。いい加減、聞き飽きたわ。大丈夫。左大臣藤原道長の娘としての責務は全うするわ」
物心ついた頃から聞かされてきた言葉。今の世のなんと不公平な事か。女はただ、流されるだけ。抗う事など許されない。
「姫様……阿部清明様がいらっしゃっております。道長様が、姫様もお戻りになるように、と。こちらは、姫様が戻られるまでには元にもどしておきますので」
「そう……では、お願いね」
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