八話 「葉山たどる」の「落胆」とか、「孤独」とか。
7
「そいつに僕のなにがわかるんだよ、て言いたいね」「なにが四百メートル一緒にやろう、だよ。僕がなぜそんなことしなくちゃならないんだよ」「第一、僕は才能が無いんだ。何もかもに。そんな僕に何を期待することがあるんだっていうんだ?」
喧騒を忌憚しているような静けさの覆う放課後の教室には、たどるとことねがいた。お互いに顔を向き合っている。たどるはひたすら森屋に対しての愚痴を託っていた。口が開けばどれだけでも愚痴は零れた。たどるは唾が飛ばないように気を配りながらも、延々と喋り続けた。ことねはそんなたどるを眺めている。まるで校舎の長い廊下を目にやるような視線だった。そこには何の感情も伴っていない。ただただ葉山たどるを、はばかるような眼差しだったのだ。
新崎ことねは、葉山たどるの現在考えている思考が漠然として摑めなかった。彼は何を言っているのだ? というのが一番に抱く感想だった。たどるの話している内容の八割方、ことねはまだ正確に理解をしていない。抽象的な感情で、暫定的に解釈しているだけのだ。たどるはことねの相槌も求めず、ただ森屋に対して言いたい意見をことねにぶつけていた。ことねはもはや、たどるの話に耳を傾けていない。たどるの声は静寂と共に流れている。潮の香りに、波の寄せ上げる音が伴うように。または沈黙の部屋に、耳鳴りが虚ろに響くみたいに。
「僕に一体どうしろというんだ? あいつは。ほんと、考えていることが理解不可能だ」ことねからすれば、現状のたどるも十分理解不可能だ、と思う。それでも、たどるは逡巡の余地も覚えず口を走らせている。そこには躊躇というものが問われていない。
「ねえ」
ことねがそこで、たどるの話を滞らせる。なんだ、というような顔をたどるはする。眉をしかめている。
「葉山君、さっき「僕には才能が無い」って言ったよね?」
「うん。言ったよ」
いささかな音も監視する敏捷な沈黙が二人を覆う。たどるは突然、口を挟んできたことねに訝りを抱く。彼女の瞳はたどるに何かを語っていた。たどるはその意図を読み解こうと努めようとする。それは宙へ浮ぶ塵を掴もうとするみたいに、困難なことだった。たどるは潔く諦めた。
彼女はたどるの顔を見つめたまま、口を開く。「これは今になってのことじゃないけど――前から思っていたことだけど――葉山君って「才能」ということを高く捉えすぎている気がするの。葉山君にとっては余計なお世話かもしれないけれど、やっぱり私はそう思っちゃうの。なんていうか……TVとかに出ている人たちとか、賞状を貰っている生徒とか、そこで始めて葉山君にとっての「才能のある人」になるんじゃないかな、て思うの。違う? いや、そこまではいかなくても、多分葉山君が捉えている「才能」というのは、そういう事なんだと思うの。自分の届かない場所に、「才能」というものを置いている」
たどるは黙っている。懇々と話していることねを、ただ虚ろに見つめている。それはまるで秋が終ったが、冬の始まるにはまだ早い空虚な期間みたいに、曖昧としていた。輪郭が正確に合致せず、たどるに見えている世界はぼんやりとしている。
「一体何を――」
「厭われても仕方ないと思う。でも、言わせてほしいの。葉山君、君は多分――ううん、絶対――便宜的に口実を作って逃げているだけよ。私は断言できる」
たどるは再び黙り込む。自分でも不甲斐ない行為だと思う。彼女の言っていることは、正確にたどるの急所を定めて虐げた。鋭利なナイフがチーズを丸く切り取るみたいに、たどるの胸は乱暴に抉られたような痛みを覚えていた。今まで見え隠れしていた空洞が、ついに露になった気がした。その空洞は誇張して、たどるの体に刻まれたようだった。水も流れないような空洞だ。
「そのとおりだ。君のいうとおり」たどるは、俯きたくなるのを堪えて、十一月に偶然降った雪みたいに弱い声で言った。
彼女はたどるを見つめている。そこには腹痛を及ばせるような気まずさが漂っている。たどるはその気まずさ含め、あらゆることに歯痒さを抱いた。僕は一体、何がしたいのだろう? そんな疑問が、まるで溶けた氷から垂れる滴ように生まれる。僕は苦悩する。彼は悶え苦しむ。たどるは煩悶する。
「君のいっているとおりだ。本当にそのとおりだと思う」たどるは言う。
「……うん」
たどるは笑みを作ろうと努める。その空間が僕を嘲笑っているようだった。たどるはことねの顔を窺うことができなかった。そして、僕は教室から逃げ出した。
その空間に残されたことねは、独り俯いたまま、自分のなにも掴めない虚無な手の平をみた。静かに深みを増す夕焼けが、さらにやるせなさを誇張した。
8
無垢な夕陽が世界を不思議に炙っている。たどるは陸上部を遠くから眺めていた。そこには白い粉で線を描がいたトラックに沿って加速走をしている男子部員や、ハードルを最上まで上げてそれを飛び越えようとしている女子部員がいた。その女子部員は飛び越えれず、派手に尻もちをついていた。そしてそれらと同じように、部員たちと愉快そうにはしゃぐ森屋の姿があった。たどるに絡むときの神妙な顔つきの森屋は、そのグランドの一部には存在していなかった。まるで使い古した石鹸のように、それは原型を留めていない。たどるはやるせない思いに駆られた。たどるは気づく。僕は本当に孤独になったんだ、と。
たどるには世界が歪んでみえた。孤独が虎視眈々とたどるに狙いを定めていたのだ。浴槽の窓のように、それは強い霞を佩びている。たどるの足元から、地面が爛れていく。爛れ、剥がれていく地面からはうっすらと陰謀を企む狡猾な闇が覗いている。やがてその闇は深淵へと変貌する。深い井戸の奥のように、それは底を窺わせない。たどるを呑みこもうとその闇が震える。暗黒がたどるを覆い、たどるは孤独に埋もれていく。たどるは一人、夜を迎えた。何者かの声が聴こえる。
「あの」それは幻想ではなく、実在する声だったことにたどるは気づく。
その声が一瞬で闇を剥奪する。たどるは目を覚ました。抽象的に歪んでいた世界が明晰に輪郭をえがいて、もとへ蘇る。夜が明けた。たどるは声がした背後を振りむく。聞き覚えのない声だったが、それが女子の主だとはわかる。そして既視感も覚えないまま、たどるは彼女を見る。
「葉山たどる……君?」と彼女がたどるを上目遣いで見ながら訊ねた。
「そうだけど」とたどるは言う。知らない人だ。
篠木ゆさは、たどるの顔を覗きこむように、見ている。