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七話 「葉山たどる」の「葛藤」とか、「意固地」とか。

 たどるは、今が授業中だということをすっかり忘れていた。その日は不規則に地を濡らす雨だった。空が翳りを覚えた薄暗い色合いをほのめかしている。今は歴史の授業をしており、中年な男教師のくぐもった声が延々と静止したかのように静かな教室を渉っていた。それと同時進行でチョークが軽やかに動き、黒板に削られて微細な屑を散らしながら文字を板に浮かべている。乾いた音が一定した律動で流れる。それはどこか時計の秒針が刻む音ににていた。生徒の殆どがそれを機械的にノートに書き写している(机に顔を埋めて寝ている者も確かに存在した)。たどるは何度か黒板に目をやるが、さっぱりわからない。

 たどるの脳には、四六時中どこかに新崎ことねという存在が引っ掛かっていた。コルクボードにストラップが掛かってるみたいに。おかげで授業にも集中できず(集中したことなど無いが)、虚ろな静寂がこもる廊下を延々とながめていた。たどるは苦悩した。どうして僕が新崎ことねのことなど考えているのだ? と。僕は彼女に過去話に同情しているのかもしれない。いや、あるわけないとたどるは、かぶりを振る。

 ここ最近のたどるは、常に葛藤に蝕まれている。たどるはそれに忌憚の意識を向けようと努めるが、その葛藤がおさまる事はなく、未だに明晰としてたどるの身に沈んでいた。たどるは廊下から視線を離し、シャープペンを手に取る。それを二、三回指の腹の上で回転させ、殆ど授業始まりから時が進行していないままの空ろなノートに立てる。ノートは空白が八割方、いや九割方を占めているにも関らず、消しゴムで粗く消された霞がところどころで致命傷なしみみたいに残っていた。頭が漠然としたまま進まず、思わずペン先が走る。しがない落書きを描いては、粗く消す循環がこの溝の中みたいに静かな教室の中で行われていた。

 ノートの端部分に、立体の四角を描く。よほど暇なんだな、と自分でたどるは思った。それをまた消す。次に扇型の形をノートに作ってみる。描いている途中でそれを消す。しばし静寂に浸る。ノートも碌に取っていないのに、机には消し粕がまるで空き巣に侵入を許してしまった部屋みたいに、散らばっていた。

 授業終了を知らせるチャイムが規則正しく鳴り響いて辺りの静寂を破る。その瞬間に生徒たちも規律良くシャープペンやノートを片付ける。そして当然のように立ち上がり、たどるも釣られるように椅子から腰を浮かせる。そして皆は億劫そうに頭を下げる。

 べつに尿意など催していない。しかし、たどるはトイレへと足を運ぶ。それはトイレをすることが目的ではない。わざと遠回りをしてむかう。二年生教室をすべて通り過ぎるためだった。そうすれば新崎ことねがたどるに気づくかもしれない。たどるはそこで邂逅を装ってことねと話す。それがこの行動がしさする意図だった。やはりたどるは、ことねが気に掛かるのだ。

 そんな浅はかな思惑どおりに進行するわけもなく、たどるはただただ無駄足でトイレに来てしまった。仕方が無いので、尿を済ませようとしよう。男子トイレの中は、たどる以外誰一人としていなかった。細長い空間の真ん中に狭い道が延び、それを挟むように小のための便器と大のための便器が設けられた個室が並んでいる。自然とたどるは隅側のトイレにへと向かう。 

 換気扇が順調に回転している飄々とした音だけが、その空間に流れていた。たどるはベルトを外すために、手をかける。そこでトイレのドアが開いた。

 森屋だった。森屋がトイレに来たのだ。それはたどるに毎度のことのように「部活来いよ」と言うためだけに来ただけかもしれない。それともただの偶然かもしれない――。

 たどるは何も言わない。森屋はたどるの隣の便器の前に立つ。それをすこし不快に思う。

「よう」と森屋が言った。

「ああ」

 沈黙。換気扇の音がとめどなく間を満ちる。

「なんで部活来ないの」案の定、そのことを森屋はたどるに訊ねた。

 たどるは舌打ちをしたくなるのを堪える。「いろいろあるんだよ」

「いじめでも受けているのか?」

「ああ、そうだよ」と適等に受け流そうとする。

「嘘つけ」

「ああ」

 鎮静。その空間は再び静寂に囚われる。トイレの外からは、騒がしい男子の声が響いている。トイレの中は、まるで放課後の校舎のようだった。

 しばらく間がある。空気がやがて重みを佩びていくような気がした。「俺はお前のいいところいっぱい知っているつもりだ」と急に森屋が言う。

 なんだ急に、とたどるは思わず噴き出す。しかしすぐにそれを堪える。「は?」

 森屋が訥々と喋り出す。「俺も最初部活に行く時、不安だったよ。行きたくなかった、と言ってもいいくらい。小学校の頃にいろいろあって、部活に入ってもそれがまたどうせ始まるんだな、て思って嫌だった。母親がそれを心配して、今まで行っていた空手を辞めさせたんだけど、正直いって空手を辞めたところで意味は無いのよ。でも、その気持がなぜか嬉しかったんだよな。それで二年生から部活何はいりたい? て訊かれて。正直参ったよその時は」

 たどるは肯く。深く肯く。そのときにはすでに彼の尿は済んでいる。蛇口を固く閉めたみたいに。しかしまだたどるは尿をしている振りをした。森屋の話には、新崎の話とどこか似通った点がある気がしたからだ。

「だって小学校で俺嫌われたんだぜ? なのにそいつらがいる部活に入れ、て言われるんだから。空手はまだ小学校違った奴もいたし、何ともなかったんだよ。まあ友達はいないけど。いやー正直、母親の考えてる事がわからなかったわ。でも、やっぱりその気持って嬉しいんだよな。やっぱり母ちゃんってそういう事なんだろうな。よくわからんけど。だから嫌でも何か言わなきゃ、て思ったのよ。それでぽん、と浮んだのが陸上部だった、ってだけだ」

 たどるはどう反応すればいいのか、思わず困惑した。ベルトを締め、水が便器に流れるのを見届ける。尿を洗い流すために、水の膜が便器に張り付くようだった。何か返さなければいけない。どうすればいい? 思考がもつれ、たどるは平然な表情を装うことができない。たどるはこめかみを掻き、「あっそ」とだけ言った。声が小さかったからか、森屋は聞えていないようだった。

「ん?」と森屋はベルトを締めながらたどるに訊く。「なんか言った?」

 たどるは舌打ちを零してから、不機嫌そうな顔をした。理由はわからない。そして声量を上げてもう一度言った。

「あっそ」

「うん」と森屋は肯く。

 たどるがトイレを出ようとしたとき、後ろから森屋が訊ねた。「なあ」

「なんだよ」とたどるは下手な演技にしか見えない態度をして、森屋を睨む。

「俺。今四百メートルやってるんだ。楽しいよ。たどるも一緒にやらない? 俺と」

 たどるは舌打ちを零す。上手くできない。何を意固地になっているんだ僕は。たどるはそんな自分に舌打ちをした。


 

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