六話 「篠木さゆ」の「困惑」とか、「嫉妬」とか。
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小学五年生のときに、篠木さゆと新崎ことねは出会った。当時通っていた習い事の女子バレーが発端だった。まるでそれは必然的なもののように、新崎ことねと篠木さゆはすぐに仲良くなった。
それから幾日か経った頃、ことねはふと自分が篠木さゆに友情とはまた別の感情を抱いているという事に気づく。その正体は曖昧にぼやけており、理解するには長時間を要するようだった。ことねにはその感情がわからない。まるで人間がさらなる欲を求めるように、その曖昧模糊とした感情は篠木さゆと出会えば出会うほど、強みと深みを増していった。ことねにはその感情がわからず、非常に曖昧なまま行き詰っている。川の淀みみたいに。篠木さゆの顔が脳裏に浮べば新崎ことねはそれに悶え、そして頭を抱える。
バレーボールを手で弾ませる篠木さゆの姿を見ながら、ことねは妙に緊張する(それが何を示唆するんのか、ことねはまだ理解できない)。身がこわばっていて空気を肺に取り込む作業も苦しく、億劫になる。彼女はそんなことねの様子など察することも無く、普段通りの口調で話す。ことねだけが顔をいささか紅潮させてぎこちなく相槌をうっていた。傍から見れば奇妙な光景だ。ことねはうまく篠木さゆと顔を見合わせる事ができなかった。日光が眼球に目掛けて射てくるようで、思わず周りの方へと視線を逸らす。逃げてしまう。本当は延々と篠木さゆの姿を視界に映していたかった。しかし、それを第三者が否定するみたいに、ことねはさらに煩悶の茂みにへと彷徨わせていく。
それが恋愛感情というものだと気づいたのは、それから何週間か過ぎた頃だった。ことねはこれまでに、そういう根拠で好意を抱いた人間など存在しなかった。そう、それが新崎ことねの初恋だった。それも異性ではなく、同姓に。私はどこへ向かっているのだろう? とことねは何度も悩む。苦悩する。
女子バレー自体に対することねの興味はすでに皆無に近かった。習い始めた頃はまだ興味があり、楽しさを感じていた。しかし、人間は飽きる生き物だ。ことねは女子バレーに飽きていた。篠木さゆと会うためだけにことねはバレーに通う。それくらいしか通う理由はなかった。それだけの事でも、ことねは休むわけにはいかないのだけれど。
ことねが女子バレーに楽しみを感じなくなったのは、飽きたという理由以外にもあった。それはいつからか、ことねが「期待される」ようになってしまったからだ。ことねには、才能があったのだ。相手チームをまるで伝説の闘牛士にでもなったかのように、奔放に翻弄させ、抵抗しようという余地も微塵と与えない。彼女のその動きに、無駄な部分はまるで無かった。なんども考え直して、ほんとうに必要最低限な物しか詰めていないリュックサックみたいに。それはまさに「才能」の精だった。
篠木さゆは同じ練習メニューしかしていないのに、もはや格が違う新崎ことねを不快に思う時が多々あった。それは妬みがもたらす醜いものだということは自分でも理解している。さゆはことねに嫉妬を覚えてしまう自分自身が何よりも不愉快だった。しかし、ことねはそんなさゆの事情など察することも無く、当然のように隣に座ってくる。思わず不快な感情を表情に露にしてしまっている時もあっただろう。この時から徐々に篠木さゆは、新崎ことねという存在を猜疑しはじめていたのだ。
そして問題が――新崎ことねにとっては事件が――起きた。篠木さゆは、目の前で顔を紅潮させている新崎ことねのその発言に、脳内が虚無な空白に支配された。何も考えることはできなかった。声を発するという行為がいささか難しい。「え」とだけ、脆い声が洩れただけだった。急速に喉が涸れを佩びていくのがわかる。強い日光を浴びていた砂を口に含んでしまったように、水分が急速に吸収され、感覚が強く麻痺する。
ことねに告白された。さゆは困惑よりもはやくに、腹立ちを憶えた。
その瞬間から篠木さゆは、新崎ことねが完全に「嫌い」となった。それは森に住む獰猛な獣がすべて溶けてしまうくらいに。さゆは彼女に嫉妬しているのだ。同じ練習メニューをこなしているのに、なぜここまで差があるのだ、と。とても深い憎悪を心の隅で抱いていたのだ。
さゆは同姓に告白された、という事実よりも新崎ことねという人物が告白をしてきたことに苛立ちを覚えていた。理由は自分でもわからなかった。バレーでの才能が彼女とわたしでは差がある、という事と、彼女がわたしに告白する、という現状にはどこにも関連したものは無い。交わる点など無い。規則正しく一定を隔てて並んだボボウリングレーンのように、それは交差することなど決してありえない。篠木さゆはただ、新崎ことねという存在に怒りを覚えているのだ。
なぜここまで腹が立つんだろう? さゆは自分の思考が正常かどうかが思わず不安になる。さゆの前でしばらく返事を待つことねは、いささか自分の気持ちを正直に吐いたことに後悔しているような顔つきに変わっている。なにかを言わなければいけない、とさゆは焦った。何といえばいいだろう? さゆはいろいろと思索する。このような状況の時、どういった言葉を返せば妥当なのだろう。
さゆは自分でも把握できていない謎の苛立ちに苦悩されつづける。そして同姓に告白されたという状況にようやく気づく。とても複雑な心境が互いに癒着し、さゆは自分という存在を定めていた箇所が歪んでいくような感覚に催される。
「ごめん」ようやく落ち着きを――僅かではあるが――取り戻すことができたさゆが言った言葉が、それだけだった。その一言だった。そのあとに付け足す言葉は見当たらなかった。
空気がとてつもなく重い。沈黙が二人の周りを漂う。ことねは案の定、と予測していた結果を知り、これで今まで抱えていた苦悩から開放されると安堵の息を吐いた。――いや、吐けなかった。ことねに与えられたのは、失恋がもたらす巧みに研がれた鋭い刃が心臓を突き刺す痛みだけだった。
しばらく間があり、「そうだよね」とことねは弱く小さな声でそういった。
返事は無い。
気がつくと前にいたはずの、さゆの姿は消えていた。吸い終わった煙草の煙みたいに、消えいたのだ。さゆはこの状況が作り上げた空気に耐え切れず、逃げたらしかった。その重く虚無な空間に、ことねは一人取り残される。ことねの視界から、世界が遠のいていくような気配がした。そこはかとなく憫笑やことねを嘲笑する声が聞える。
ことねの視界が、まるで蛇の腹のように大きく歪む。どうやら、私は泣いているようだった。
次の日からことねは孤独となった。昨日のこともあり、いささか気まずさが余韻のように身に残っていることねは、嫌々ではあったがバレーに向う。誰とも喋りたくないな、とことねは祈る。肌がこわばり、体育館に足を踏み入れることに緊張してしまう。みんなが昨日あった事(ことねが告白したこと)を把握しているのではないだろうか、という不安が過ぎる。体育館からは普段とは異なる気味の悪いよそよそしさが浮遊しているような、幻の感覚が肌に張りつく。
体育館の中に入ってしまうと、ことねはさらに忙しなく辺りからの視線を確認する。そこにいる人たち全員が、昨日ことねにあった事を知っている。そんなことばかりが脳裏に浮び、思わず存在しない視線を感じてしまう。ふと、さゆはまだ来ていないのだろうか? と浮ぶ。今日はあまり顔をあわせたくはなかいな。けれど、やはり気になってしまうのは否めない事実だ。
篠木さゆはすでに体育館へ来ていた。さゆの姿が視界に入り、ことねは反射的に身を隠そうと動じてしまう。それと同時に、私のせいでバレーに来なくなるんじゃないか? といういささかな不安が消失し、安堵を得る。そして緊張がさらに身を覆う。深夜に訪れた墓地みたいに気分が荒く無茶に昂り、敏感に意識が反応をしてしまう。ことねの神経は擦り減っていく。逃げだしたくて、身体が引きの大勢を取ってしまう。耐えろ、耐えるんだ私。
そして彼女は落胆する。さゆの視線が、ことねの瞳を捉えたのだ。ことねはもちろん、その視線を拾う。猫の尻尾が逆立ち、太くなるみたいにことねは固まる。湯気を発しそうなくらいに肌へ紅潮を完成させ、脳内から複雑にもつれていたあらゆる感情が一瞬にして抹消する。ことねの脳内は真っ白となる。淡白とした、虚ろなものにへと変貌してしまう。すべてが完結したみたいに。
彼女の視線は、鋭く鋭利な刃物のようで、ことねは思わず目をそむける。直感が走る。ことねは最悪な状況を育んでしまったのだ。失敗だった。なぜ思いを伝えようとしてしまったのだろう、と過去の自分に憎悪を憶える。なんて馬鹿なことをしたのだ。そしてことねは、失恋を味わった。すべてを呑みこむ深淵が、彼女を襲うみたいに。
それからのことねはバレーを辞めた。バレーそのものに楽しさは感じなかったし、雄一のさゆとの関係も消失した今では、通う理由などどこにも無かった。期待されている事など、どうでもよかった。辞めることに対する逡巡は毛頭無かった。潔いものだった。ことねは深く重い溜息を洩らす。
やりきれない思いのまま、ことねは中学へ入学する。そして部活は「篠木さゆが絶対に入らない」と勘を巡らせながら導き出した答えの、「文芸部」選んだ。篠木さゆとはもう顔を合わせたくない。過去が再び彷彿してしまう。それを拒むために、篠木さゆとはもう会わない。
それは篠木さゆも同じだった。もう新崎ことねとは会いたくはなかった。あれからさゆは女子バレーにいるメンバー全員に、ことねから告白されたことを広めた。詳しい理由は自分でもわからなかった。ただ、腹立ちが止め処なく身体の芯を揺さぶっているのだ。かつてはあれだけ仲が良かったのに、そんな関係は脆いものだな、とことねは思う。それはガラス製の食器みたいに、皹が入れば潔く崩壊するのだ。
なので、部活を選ぶときでも「新崎ことねが絶対に選ばない」部活に入ろうとさゆは決めていた。あらゆることを思索し、考慮した結果、思い当たったのが「文芸部」だった。
そして、再び二人は会ってしまう。
予想外な展開に、新崎ことねは困惑し、そして部活にも行かなくなかった。それは両親には言えていない。一年生の頃はまだ一週間に一度ほどの程度で行っていたが、二年生になると、それすらも億劫になった。文芸部自体にも、そこまで面白みは感じなかったのだ。
6
たどるはその事をことねから聞いたあと、その深い余韻に身を沈める。たどるはことねの顔を見る。そして現在の時刻を確認する。そろそろ下校しても悪くない時間だった。もうすこしだけ、彼女と話していたいな、といささか思う。空は薄汚い藍色に染まっている。真夜中の深海のような、奥行きのない色合いだった。そこに墨を含んだ埃のような雲が飾られている。無造作に貼り付けられた切り絵のようだ。その空をたどるは見据える。それからもう一度、彼女を見る。自分が偽者なら、彼女は本物だなと思う。
その時にはすでにたどるは、彼女が篠木さゆに抱いた感情と同じものを、彼女に覚えている。