五話 「新崎ことね」の「部活事情」とか、「初恋」とか。
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放課後を迎えると校舎は鎮静する。まるで空に特定されて精密に点検されるみたいに、よそよそしい静けさが場に佩びている。その海底に沈んだような教室は葉山たどるだけの物となる。その中でたどるは読書をする。空は夕陽をたたえ、グランドからは部活動の声が渉ってくる。たどるはこの自分だけを残して見放された教室に、心細さを感じながら(自分で作り上げた感情だ)ひとしきり読書を進める。僕は孤独な存在、と脳裏で呟きながら。耳元を覆う静寂が、たどるを憫笑しているような錯覚に陥る。それは自分が作り出したものという事をたどるは自覚している。
暗澹たる深淵にたどるは自身から飛び込む。劣等感がまとわり、孤独と疎外された感覚がまるで風呂場から放出した盛んな湯気みたいに脳裏を浸食し、曇らせた。
やがてたどるはそれに飽き、自己憐憫を中断した。自分だけしか存在しない教室でやっても、空しいだけだと気づいた。そして読んでいた文庫本を机に置き、教室内を眺めた。淡い橙色を佩びた空は風を伴っている。夕陽に照らされ明晰な輪郭をしている巨大な雲は宙を泳ぐように凪がれている。教室の窓は風通しのために開いたままになっており、そこからは心地よい弱風が侵入してきていた。窓を隠しているカーテンはまるで息を吹きかけられるタンポポの綿のように悠々と宙を舞っており、教室の地面にウェーブを描きながら踊る薄い影が映されいた。たどるはそれらを眺める。
教室内は変わらずしんと完結した静寂をまとっている。黒板は粗く消されたチョークの跡がそのまま残されており、出鱈目に霧が渦を巻いたような霞みが浸食している。その隣に掛けてあるホワイトボードには明日の日直と時間割が記されている。ホワイトボードよりも高い位置に飾られた掛け時計は刻々と乾いた音を放ちながら、順調に世界の進行を音で知らせている。後ろには一定の距離を守って隔てられた机が並び、さらにその後ろには生徒の荷物を片つけるための木製のロッカーが横長に佇んでいた。そのロッカーには殆ど荷物は無く、空洞となっている所が大半を占めている。たまに美術でつかう絵の具や習字道具のバックが置き忘れたままの所も存在した。
たどるはその光景を満足するまで視界に収めたあと、自分の椅子から立ち上がり掃除道具が整頓されたロッカーからほうきと塵取りを取り出し、教室の床を掃く作業をはじめた。教室の床はまるで掃除がされていなかった。ここを掃除の担当をしている生徒たちの億劫という意図が、そのまま地に染みついているように埃が目立った。たどるはそれを掃く。いささか列からずれている席を正確に直し、ボウリングレーンのような奇麗な一列を完成させる。チョークを消した色がそのままな状態である黒板消しをクリーナーで掃除し、そして荒い霞みのようなものが広がったままの黒板を元の深緑色に甦らした。次に先が丸みを佩びて凸凹になったチョークを几帳面に横に並べる。それが終了すると、妙なやりきれなさに支配されていた教室は元の清潔さを取り戻したようにたどるには思った。
「何やってるの?」と誰かが廊下から言った。
「え」とたどるは乾いた声を洩らしながらそちらの方へ振り向く。そこには新崎の姿があった。それからたどるは「そっちこそ」と言う。
「え」と新崎は声を洩らす。「そっちこそ」と新崎も言う。たどるの反応を楽しんでいるようだった。
「僕は教室の掃除をしていただけだけど」とたどるは手に持っていた、ほうきと塵取りを新崎に見せた。捕えた獲物を見せつける狩人のように。
新崎は一度うなずく。それから「今日も部活行かないの?」とたどるに訊ねた。
「そっちこそ」
「葉山君それはもういいよ」と新崎はたしなめる。
「ごめん」とたどるは言う。「それで新崎さんも部活はサボりですか」
「別に下の名前でいいよ。「ことね」でお願い。新崎、てなんか長いし」とことねは訂正し、「部活は今日もサボり」と言った。たどるは昨日と比べてことねの口調がどこか明るい気がした。妙な違和感を覚える。
「それで、何の用?」とたどるは訊ねた。それから若干口調が偉そうだったな、とたどるは頬を掻く。
「いや、私もする事が無いし、廊下を歩いていただけだけど」
「僕もそれはよくやるよ」
「そうなの?」とことねは言った。「部活サボるあるあるなのかな?」
知らない、とたどるは言った。今日はよく喋るな、とたどるは勘を巡らせてみる。もしかして僕ともう一度話したいから来たのではないだろうか? とおこがましい思考が脳裏に浮ぶ。それは無いな、とたどるはそれを拭き消そうと努めるが脳裏にその考えは焼きついたように剥がれない。丸太に釘を打たれたみたいに、それは離脱しないでいる。
実際、新崎ことねは退屈していた。一人で教室にいても何もすることが見当たらない(宿題も済ませてしまった)。椅子に背を預けて宙の空白を見据えていると、ふと葉山たどるの顔が脳裏にいささかな揺らめきを佩びながら浮んだ。彼は今日も部活に行っては無いだろう、という気がし、散歩を装って会う事にしたのだ。そこには彼に対する好意のようなものが僅かではあるけれど、あっただろう。しかし恋愛などという大きなものではない。
たどるは自分の席の椅子に腰を下ろし、ことねはその前の席の椅子を借りた。従ってたどるとことねは向き合うようになる。たどるは思わず赤くなる。異性と顔を合わすなんて、そんな機会など今までにあっただろうか? 無い。そんな記憶はたどるには無かった(仮にあったとしても、それは砂が覆い隠すみたいに憶えてはいない)。
ことねはたどるの机の上に置いてあった文庫本を一瞥する。「何読んでるの?」と訊ねる。たどるはその文庫本の表紙を見せる。面白い? とことねはそれを見て訊ねる。わからない、とたどるは言う。少なくともつまらなくはないよ、と付け足す。ことねは「そう」と肯く。
会話が途切れる。場に重い沈黙が淀みはじめる。風に靡いたカーテンとその揺らめく淡い影が、その間を埋める。それは存在しない第三者のような役割を演じている。たどるはその淀む沈黙をはばかり、何かないかと勘案する。「昨日も訊いたけれど」
「うん?」
「どうして部活に行っていないの?」とたどるは訊ねた。特に興味はない。たどるは彼女の企みは理解しているつもりだ。何せ自分と同じなのだから。
彼女は顔をしかめた。それを訊くか? というような事を表情で訴えている。たどるはその青臭い演技に内心で嘲笑する。傍から見ると、こんなに痛々しいのか、とたどるは自分を振り返る。これからは改心しようという考えはまるで無い。
「私の初恋の話をしてもいい?」と彼女は確認を取るように訊ねた。
構わない、とたどるは言う。
「私の初恋は小学五年生の時だったの」
「奇遇だな。僕もだ」嘘ではない。本当に偶然、同じ時期にたどるは初恋を覚えていた。その初恋の女子は今じゃ不良となっている。どう道を踏み間違えてしまったのだろう? 興味は無い。
「そう」とことねは興味なさそうに言う。「でもその初恋が駄目だったの」
「なんで」
「私ね、女の子に恋したの」
「奇遇だな僕もだ」とたどるは驚いたように言う。そして昼間に見たあの本の表紙が脳裏に過ぎる。そういうことか。
「君のそれは当然のことでしょう?」
「まあね」
それから彼女は訥々とではあるが、一度息を吐いてから言った。「それでね、私はある日決意をきめてその子に告白する事にしたの。まあ結果は予想するまでもなく、見えていたけれど。それでも私は告白することにしたの。絶対に失恋して落胆することは予想できたけれど、これできっぱり終わらせようと決意したの。
私が恋したその子は当時やっていた習い事のバレーで一緒になった子でね、行っている小学校は違ったけれどとても仲が良かったの。本当に仲良しだったし、正直私はあの子に会うためにバレーに通ってたようなものだった。そして私、告白したの。勇気を出して。彼女は困惑してた。まあわかってた反応だけど、実際そうなるとやっぱり後悔したわ。でももう遅いから、彼女の返事がくるまで黙っていたの。それで結果はわかるよね?」
たどるは肯いた。作り話にしては毅然としているな、とたどるは関心した。もしかすると本当なのかもしれない。
「それで私は初恋にして初失恋をしたの。返事は「ごめん」とそれだけ。「友達のままじゃだめ?」とかそんなのも無い。謝罪されただけ。正直もうその子との関係は終わった、と私は思った」
「でも彼女は優しかった、という事か」とたどるは言った。部活に行かない理由とまるで関係の無い話だな。
「違う。本当に終わったの。次の日、緊張しながらバレーに行ったら、その子は複数の女子を連れて私を見ていたの。それで私はとても緊張しながら喋りかけたんだけれど、何も返ってこなかった。こうして私は無視されるのが始まったの。それからも私は無視されたわ。それからバレーで履いているシューズを隠されたり、いろんな事をされた。私は本気で告白を試みた自分に後悔したわ」
たどるは不覚ながら、その話を途中から同情してしまっている自分がいる気がした。「それで部活に行かなくなった理由は?」と訊ねる。
ことねはしばらく黙り込む。たどるは彼女に猜疑を抱いている……はずだった。彼女の顔は、何かを堪えている。それが涙だということはたどるはすぐに気づいた。ことねの脳内には、あの時の光景が強制的に再生されていく。ことねはその過去を思い出すことを拒んだ。しかし、求めていない涙が高速に上昇し、目元に浮ぶ。反射的にことねは涙をたどるに見られないように隠す。とてもぎこちない仕草だった。たどるはすぐにそのことに気づく。ことねは迂闊に思わず鼻を啜ってしまう。ことねは口を結び、涙の存在を拒否する。しかし狡猾な涙は拒絶することねを構い無く、流れる。涙は止め処なく、溢れる。涙が頬に線を引く。そして、ことねは泣いた。
たどるはその静かに泣き出すことねを見つめたまま、戸惑いを覚えていた。どうすればいい? たどるはその話の続きをしなくていい、と言った。するとことねは「いや、話す」と言う。そして彼女は、喋り出しす。喘ぎが喉につまり、嗚咽に襲われながらも、彼女は話す。たどるは唾を呑む。