三話 「森屋幸太」の「友人関係」とか、「過去」とか。
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森屋幸太という人間には、友達という関係を持つ人間が少なかった。いない、といってもいいだろう。それには葉山たどるとは違い、「原因」というものが存在した。その原因はアスファルトが欠けて石ころになったみたいに、くだらなく些細な事だった。そんなくだらない事で、友人という関係は「元」友人にへと変更されるのだ。
まだ森屋が小学生の頃(六年生の中間辺り)、当時森屋は仲良くしていた友人と喧嘩をした。諍いが止め処なく続き、お互い引き下がれない状況となってしまう。そしてそのまま関係は途切れた。制服の糸がほつれるみたいに。
森屋は自分が先に謝罪をしなかったことを悔やんだ。それと同時にそれは相手も同じことを考えているだろう、と勝手に想像した。絶対そうだ、俺たちはまた友達に戻れるはずだ、と。
しかし、森屋のそんな希望はことごとく消滅する。気がつけば森屋は孤独となっていた。その「元」友人以外の友人からも、関係は途切れていた。それに気づいたときには既に独りにへとなっていたのだ。なぜだ? と森屋は考えを巡らせる。そしてたどり着く答えは、必ずそれだった。
喧嘩相手の「元」友人が、森屋の悪い噂を広げているのだ。
そうに違いない、と森屋は断言できた。「元」友人は、そういう性格なのだ。まだ友達関係だった頃にも、幾度か他人の悪口を叩いていたのを思い出す。それが森屋にはやるせなさに変わり、やがて腹立ちに変貌した。そして、悲しさと淋しさを伴った。つまり「元」友人は、森屋と復縁する気など、毛頭と(それは宙を舞う塵ほども)無かったのだから。絶交したら、とことん嫌うのだ。
それからの森屋はまるで暗渠に住み着く虫のように薄暗く以前の明るさ(それが森屋の長所で取柄だった)も見せなくなった。問題が勃発する前までは仲良くしていた友人たちは、まるで森屋を脱ぎ捨てられたシャツを見るような目つきで俯瞰に見、そしてそこには貶めを佩びさせていた。
森屋は悔しかった。実に遺憾に思えた。自分の言動が、どれだけ醜かったかと激しい後悔をし、そして「元」友人に対する怒りは止め処なく蓄積され続けた。そんな日々は地獄よりも過酷だと森屋には思えた。それでも学校を休むという事は森屋はしなかった。そうじゃないと完璧に敗北した、と思えるからだ。そんな日々の繰り返しを過し、森屋は中学に入学した。新しい友人を作ればいい。森屋は以前の明るさを(多少無理矢理ではあったが)取り戻し、新たな友人を作ることに努めた。
しかし、森屋はまたしても失望する。友人と呼べる関係を持てた人間は二、三人ほどできた。しかし、それすらも粉砕された。「元」友人のあくどさは、中学になっても続いたのだ。またしても悪い噂の波紋を広めたのだった。
それを知らない森屋は、いつものように新しくできた友人たちに話しかける。しかし、どこか妙なよそよそしさを感じる。そして、気づく。なんでだよ、と何度も託つ。どうして俺だけがこうなるんだ? そこまで俺を蹂躙し、何が楽しいのだ? そして森屋はまたしても孤立した。休憩時間になれば机に身を預けて眠る、という振りをし、放課後になれば潔く下校した(当時森屋は習い事で空手をやっていた事もあり、部活には入っていなかった)。
習い事で通っていた空手には、楽しさというものは感じなかった。ただただ淡い使命感のように委ねられ、そこはかとなく通うだけだった。ましてや空手が強いというわけでもなかったし、強くなろうという努力もしなかった。言われた練習メニューをただただこなし、終了の時間がくれば誰よりも早くに家に帰った。
森屋の母親は、そんな息子の日々にどこか薄気味悪さを感じていた。家に帰っても寡黙をつらぬき、夕飯ができればそれをひとしきり食べ、風呂が沸けば赴くように入って身体を洗う。宿題を終わらせ、決まって午後十一時には就寝した。それはまるで機械のように規則正しく、そして生きる気力を捨てたような生活だった。
母親はそんな森屋を見ていれなかった。空手の日になると当然のように仕度する森屋を見て「行かなくていいのよ?」と訊ねるが「なんで?」と返ってくるだけだった。そして母親は森屋に空手を辞めさせた(森屋が何も話さないので、母親は何が起きたのかも把握していなかった。小学校の担任にも何度も訊いた。しかし、担任の教師も首を横に振るだけだった。同じく、中学の教師も)。
空手をやめたところで森屋が以前の明るさを取り戻すとは思えなかったが、母親はこれでいいんだ、と自分で無理矢理解決に持ち運んだ。そして森屋に「何かやりたい部活はない?」と訊ねる。二年生になったら部活をしない? と。
森屋はひとしきり黙ったあとで、「陸上部」と小さな声で(ほぼ囁き声で)呟いた。そしてもう一度、もうすこし音量を増して「陸上部に入りたい……です」と言った。それも丁寧な口調で。母親ではない誰かによそよそしく喋るみたいに。それが母親には辛かった。
それでも森屋がそう言ったことに母親は嬉しかった。「じゃあ」と母親は微笑みながら言う。「陸上部に、入部届け出しましょ」と。森屋はすこしだけ頬を緩めた気がした。それと同時に、不安を抱く顔色になった気もした。それは否めない事実だった。
二年生になった森屋は新しい教室になり、新しいクラスとなったが以前のように友達を作ることはしない気でいた。どうせ円滑にいくはずもない。しかし、どこかで孤独の淋しさを抱えているのも事実だった。思わず友達になれそうな生徒がいないか教室内を見渡す。そして森屋と同じように一人でいる生徒を見つけた。
それが「葉山たどる」という人間だった。退屈そうに机に身を委ねて顔を隠している。森屋は椅子から腰を浮かし、葉山たどるの方へと向かう。友達になれるかな、という淡く僅かな期待を抱いて。
しかし、足が思うように動かなかった。それは葉山たどるに話しかける事を身体が拒んでいるようだった。再び過去の出来事が脳裏に淡々と浮ぶ。上手く決意できなくて逡巡を繰り返す。指先が震えているような気がする。笑みが引き攣っているのもわかる。そして葉山たどるに話しかけることを、躊躇した。
森屋は葉山たどると自分の共通点を探った。いろいろ模索し、ふと葉山たどるの入っている部活は何か、と思い当たった。担任の教師に「葉山たどる君の入っている部活は何ですか? 友達になりたいんです」と訊ねる。
陸上部だった。これだ――と森屋はまるで決定的な証拠を掴んだ探偵のように一人で高揚した。そして一人で本を読んでいる葉山たどるに目をやる。森屋は一度こめかみを掻き、重く鈍い足を前に出して歩みを始める。緊張で胃が強張り、息が苦しい。どう話しかけようか、一言目をいろいろと考えてみる。何も浮ばないことは見えていた。
葉山たどるは森屋の存在に気づく。そして森屋は訊ねる。上擦った声を通常に戻そうと葛藤が混じったぎこちない口調で。
「俺さ、陸上部に新しく入ろうと思うんだけどさ。どう思う?」
は? と森屋はまたしても後悔する。どう思う? と言われても……と自分で思う。どう思う?