二話 「葉山たどる」の「部活事情」とか、「劣等感」とか。
彼女は本を抱えるように持ち、まるでシリアスな顔をしながらワインの香りを誇張して味わうみたいにゆっくりと視線を文字列に渡らせていた。たどるは今の状況に勿な勿体無さを感じていた。異性との会話という機会は、たどるにとってとても珍しい事態だった(さらにいえばたどるは同姓との会話も少ない)。そんな珍しい機会をたった一言だけで終了させるには、何か惜しい気がした。たどるはもう一度彼女を見る。変わらず彼女は文章を規則正しく読み進めていた。
「本が好きなの?」とたどるは訊ねた。
彼女の反応は無い。自分の声だけが図書館内に小さく響き、場がさらに強く鎮静したような感覚にたどるは囚われた。僅かな羞恥心を覚える。
しばらくして彼女はもしかして、と確認するような顔でたどるに目をやった。「私に言ったの?」
「そうだけど」とたどるはいささか歯痒さを感じながら言った。君しかいないじゃないか。そしてもう一度「本が好きなの?」と訊ねる。その質問への意図は微塵と無い。
「うん。好き」と彼女は言った。扁平な板の上に玉を転がすような機械的な喋り方だった。
「僕も好きだよ」とたどるは言った。「読書家ほどではないけれど」
「私も」と彼女は言った。それだけだった。あちらには会話を続けさせようという気は無い。彼女は一番先に浮んだ言葉だけを使うみたいに淡白として簡潔な口調だった。
その口調にたどるは困惑し、やがて会話を続けさせる事を諦めた。そしてなぜ会話を続けさせようとしたのか、たどるは自分のしようとした意図がわからなかった。彼女はまじまじと本を見据えている。たどるはその彼女を見つめている。
図書室内はまるで真冬の夜空のようにしんと徹底した静寂を守っていた。会話が途切れるとそれはそれでたどるは困った。何となく彼女の持っている本に視線が行く。彼女はその視線に気づき、怪訝そうにたどるの顔を窺う。
「もしかして、これ見たいの?」と彼女は訊ねた。持っていた本の表紙をたどるに見えるように立てる。そうすると本が彼女の口元を隠した。
「いや、そうじゃないんだ」とたどるは手を横に振って否定した。「なんでこの時間に図書室にいるのかな、て」
「だから君もじゃん」
「僕もだけどさ」とたどるは肯く。
それからたどると彼女は図書室の椅子に腰を下ろし、テーブルを挟んで向かい合うように座った。彼女は先程持っていた本を棚に戻し、また違う文庫本を持ってきていた。たどるも適当な本を一冊選び、それを自分の前に置いた(特に理由は無い。彼女に倣っただけだ)。彼女はたどるの制服の胸元に付いた名札を一度見、「葉山君」と言った。たどるも彼女の名札を一瞥する。「新崎さん」
「確認だけどさ、二年生だよね?」と新崎は必要のない確認をした。靴紐を見ればすぐわかるのに。
見てのとおり、とたどるは言った。そして持ってきた文庫本を手に持った。知らない作家の、見た事のない本だった。
「もう一つ質問してもいい?」と新崎はたどるに訊ねた。「部活には入ってる?」
「入ってるよ」とたどるは澄ました顔で言った。そしてそれがまるで自分の長所だとでもいうように、「幽霊部員だけどね」と言った。若干強調するように。
「なんで?」
「まあいろいろあったんだよ」とたどるは意味深さを装った口調で言った。
もちろん、理由など無い。ただ行きたくないから、というだけなのだ。しかしたどるはわざとそれを誇張して話す癖があった。そうすれば、他人はたどるに同情の目を向けてくれるからだ。たどるは劣等感や疎外感、自己憐憫が強い人間だった。他人から心配や不安の眼差しを浴びることで、たどるは密かに高揚するのだ。孤独な僕を心配してくれている、という事実をゆっくりと咀嚼する。そうすることでたどるは――幸甚といってもいいだろう――とても心地よい感覚を覚えるのだ。
たどるはよく、部屋の隅で身体を収縮するようにして座る。いじめられているわけでも、貶められているわけでもない。しかし、自分は悲劇のヒロインだと思うことで疎外感や孤独感が身を覆う。僕は死んだ方がましな人間だ。僕という人間は自殺するために生まれてきた、という感傷が淡々と脳裏に浮んで心を縛り(それも自分が勝手に生んだものだ)、たどるは「存在しない劣等感」に身を沈める。そうすると、涙が溢れそうになる(正確には涙など現れない。作った啜り声だけがしているだけだ)。無理に嗚咽を試み、声を殺して咽び泣く、という振り。たどるは他人の目を気にしながら自己憐憫に溺れる仕草をし、容易く人の心を欺いて同情の視線を貰う――狡猾な人間なのだ。
そしてたどるは目の前にいる新崎という人間も僕と同じだろう、と推測していた。
たどるは自分が新崎に徐々に敵意識を抱くようになってきているのが理解できた。僕と同じなのだ。こいつもどうせ人の視線を気にして悲劇のヒロインを装う腹黒い人間なのだ。格部活動が活動しているこの時間帯に、図書室なんかにきて本を読んでいるなんて僕のような思考を備えている人間しかいないだろう。あるいは受験勉強に励む受験生か、だ。
「そう」と新崎はあまり興味なさそうに言った。
「君は部活に入ってるの?」とたどるはあえて訊ねる(たどるの中学校は何か事情がない限り、部活には入らなきゃいけないのだ)。
「まあ、入ってるよ」と新崎は言いながら椅子から腰を浮かす。そしてテーブルの上に置いてあった本を棚に戻した。「一応ね」
「どういう事?」
「私にもいろいろあるってこと」と新崎はそう言い捨てて、図書室を後にした。
僕も帰ろう、とたどるも椅子から腰を上げた。そして教室に戻り、リュックを担いだ。もう一度だけ窓から空を見る。黄昏はさらに濃さを強めていた。いささかな闇も佩びている。夕陽が一日の終りを知らせるかのように盛んに燃え、たどるの肌を赤く染めた。