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監獄迷宮  作者: ばち公
虎落(もがり)ばかりの迷宮路
9/74

 改めてみた虎はやっぱり恐かった。こちらの気も知らず、ぐっと背を伸ばして口を大きくひらいて欠伸をしている。その全長は、尾を含まずとも三メートルは超えているだろう。大きな口腔と剥きだしにされた鋭い牙は、狙われた獲物の末路を想像させるには十分すぎるほどだ。

 当たり前のことだが、もちろんオリは怖気づいた。


「やっぱ怖い」


 ミオはそんなオリを健気に励まし、妖精はまあこうなるよな、というような表情でそれを眺めていた。

 やるしかないと分かっているくせに、今さら止めるつもりもないくせに、どうしてこう、思い切りよくなれないのだろう。


「虎殺しなんて古典の英雄じゃあるまいし」


 未だブツブツとよく分からないことを呟いているオリを一瞥して、妖精は溜め息をついた。作戦第一段はオリの希望で、しかも全てが彼女にかかっている、割りに、全くもって頼りない。


「ほら、あの虎すっごいお腹空いたって顔してる。ね、ミオ?」

「あ、はい! あれはすっごいです。飢えてます」


 ミオは力強く頷いて賛同した。明らかに合わせにきていた。

 主人の望む言葉を瞬時に吐きだす才能は従者としてはパーフェクトだろう。保護者としては落第だが。


「甘やかしは本人のためにならないわよ」


 妖精の耳が痛くなる言葉に、ミオは目を泳がせてそっぽを向いた。

 こんな何一つ益にならないくだらないやり取りが、今度はいつまで続くのだろう。

 もちろんオリの気が済むまでだ。

 さっきの決意はどこいった。妖精の小さな唇から、その愛らしい見た目とかけ離れた、くたびれた老婆のような溜息がこぼれた。


 その時だった。


「いいから行け」


 聞き慣れぬ声に驚く間もなく、白いふくらはぎを晒した足が伸び、オリの尻を蹴とばした。

 げし、となんの気遣いも無く突きとばされたオリの細い体は、あっという間にバランスを崩し、めちゃくちゃな体勢になりながら緩いはずの下り坂を激しい勢いで転がり落ちていく。驚嘆と悲痛のいりまじった叫び声をあげ、しまいには地面にべったり張り付くようにうつ伏せたオリ。鼻血とか出てるんじゃなかろうか。


 そして、そのすぐ目と鼻の先には、驚いたように尾を立てた黒虎が待ち構えていた。


 オリの哀れな様を最後まで見届けた妖精が、はたと思い出して慌てて振りかえれば、そこには見慣れた通路が伸びているだけであった。


「……いない」


 誰もいない。幻覚などというわけでもない。妖精は、妖精族の特技ともいえる幻に関しては自信を持っていた。

 つまり年若い声の主は、本当に影も形もなく消えてしまったのだ。

 一瞬見えた脚部は人間のようだったが、まさかそんなはずもない。いったい何者、と考えかけたところで


「オリさま、」


 ミオの声に意識を戻された。見れば、オリが虎の前足で顔を踏みつぶされていた。こんな状況でなければ指さして笑っていただろうマヌケな格好をしていた。まあとりあえず、鼻血は出ていないみたいで一安心だ。なにやら会話しているらしい気配もある。すぐに殺されるということはなさそうだった。


 そうだ、今は謎の気配の正体なんて気にしている場合ではない。虎と作戦についてのみ考えなくては。こうした始まり方は予想外だが、とりあえず決行するに至ってはなんの問題もない。

 なにはともあれ、全てがオリ次第である作戦第一段の開始だ。




 いきなり自分の尻を蹴飛ばしてきた糞野郎――少年に文句を言ってやろうと、オリは勢いよく顔をあげて気が付いた。かなり蹴飛ばされたらしい。距離を取っていたはずの黒い虎が、覗き込むようにこちらを見つめていた。鼈甲のような丸い瞳に、呆然としたオリの顔がうつっている。


 間近で見ると、その巨体はさらに迫力を増していた。ここまでくると逆に現実味がなさ過ぎて、まるで作り物のようだ。しかし、その黒く艶やかな毛皮を押し上げるような骨の動きは本物だ。盛り上がるような筋肉に、しなやかに動く太い尾。オリの存在を確かめるようにその鼻がせまってくる。

 近い、と思う間もなく、オリは虎の前足にゆっくりと、いっそ優雅な動作で押さえつけられた。

 痛くはないが、かたくなった肉球と地面にサンドされ、オリの顔は縦長にのびていく。


「人間のお嬢さんね、いらっしゃい」


 老けた女性の猫なで声だった。踏みつけられた横っ面にぬるい息がかかる。自分の息だったら死んでしまいたくなる程度には生臭い。血と肉だろうか。食べたのだろうか。今お腹が膨れていてくれればいいと願いながら、とりあえずオリは媚を売っておくことにした。


「コンヌヅヲー」


 ぺちゃんこになったほっぺではこれが限界であった。

 徐々に徐々にかけられていく力は、耐えられないほどではない。弄ばれているのだなとよく分かる。虎は面白いのか、声音に笑みをふくませる。


「ここを通りたいのなら通行銭を置いて行きなさい」


 ほんの少し、口が利けるくらいに力がゆるめられた。


「金十枚ぐらいあればいい?」


 間髪入れずに尋ねたが、もちろん口から出まかせである。今のオリは紛うことなき一文無しだ。

 虎は意外だったらしく、少し黙った。前足から完全に力が抜かれ、オリの顔も元の状態に戻る。いそいそと身を起こすオリを横目に、虎はゆるゆると首を振った。


「……ダメね。あんまりつまらなすぎるわ」


 結局、わりとアッサリ断られた。一応表情もうかがうが、獣らしい真顔でなにを考えているのかはさっぱり分からない。反応らしい反応といえば、ヒゲがピクリと揺れたくらいだ。


「別に価値のあるものがほしいわけじゃないのよ。私は私にふさわしいものか、珍しくて面白いものがほしいの。おわかり?」


 後者はともかく、虎に相応しいというのは具体的にどのようなものだろう。オリはすこし口籠った。


「……き、金はダメ? どうしても通りたいんだけど」

「金は私にふさわしく輝かしいけれど、もう持ってるのよねぇ。同じものが大量にあってもしょうがないじゃない?」


 コレクター気質ということだろうか。めんどうな虎だ。

 オリは一生懸命考えてから、とりあえず、自分の制服のリボンなんてどうかと尋ねてみた。これは完全に昔読んだ絵本の影響であるが、珍しいものであることには違いないだろうとも思ったからだ。

 虎は何も言わず。ただぐるぐると咽喉を鳴らすのみであった。


 明らかにまずい無言だと察したオリは、すごすごその場を後にした。

 とりあえず、オリの手元にあるものではとても賄えきれないということが分かった。やはり、やるしかないのか。




「だめだった」

「おかえり。よく無事に戻れたわね」

「ホント無事でよかったです。心配しました、わん!」


 虎は追ってこなかった。うまくすればオリを使って何かいいものを手に入れられると思ったらしい。そんなわけないだろ。――と、言えたら言ってやりたい。


「リボンはいらないみたいだった」

「まあ布だもんね。さらさらで気持ちいいから私は好きよ」


 妖精はなんとも珍しいことに、慰めてくれているらしい。大事なものを一蹴されて落ち込んでいると思われているようだ。


「お怪我はありませんか?」

「うん大丈夫。わりと普通に喋れたよ」

「通してくれそうでした?」


 オリはそこでかくかくしかじか、虎の欲しがっているものを説明した。


「無理ね」

「無理ですね」

「だよね」


 そろって溜息をつく。この迷宮上層部、ほんとうに何にもないのだ。ミオが念のためもう一度見てきてくれたのだが、やはり何もなかったらしい。

 これでなんとかなったのなら、あんな罠なんて使わなくて済んだのだが。


「というよりもあの虎、珍しいものなんて狙ってたんですね。宝石とかを欲しがってるのかと思いました」

「なるほどねぇ、私のあの小っちゃい杖獲ってどうするのかと思ってたけど……」


 そこで言葉を区切り、ふと、妖精は首を傾げた。


「というか人間の肉なんて珍しいもの、あの業突く張りがよく逃がしたわね」


 何気なく呟かれた言葉であったが、オリの心を決めるには十分だった。


 なるほど、ああもあっさり逃がしたわけだ。鴨が葱背負ってくるのを狙っているのか。オリが財宝を持ってのこのこ戻ってくる保障などないというのに、愚かな虎だ。最悪、オリが何も持って来なくても、オリ自身を食えば十分だと考えているのだろう。

 目先の欲に捕らわれないといえば聞こえはいいが、実質ただの強欲者。二兎追う者は一兎をも得ず、の典型だろう。まあそのお蔭でオリは今も生きているのだが。

(礼に、このことわざの意味を教えてやる)


「やるか」


 短く、だがはっきりとした宣言に、ミオと妖精は頷いた。


「がんばりましょう! わん!」

「そうね、私も出来るかぎりのことをするわ」


 ミオはやる気満々、とでもいうかのようにブンブン尻尾を振っている。完全に興奮している犬そのものである。その度にオリの腿にあたっていたのだが、当のオリはというと何か考え事でもしているかのように押し黙っていた。


「オリ、どうしたの?」


 妖精が探るような顔つきで問う。


「……なんでもないよ。ちょっと緊張してるけど。あの、頑張ろうね」


 呆れたように「当たり前でしょ」と言われたところで、オリはやっと強張らせていた表情をゆるめた。それでもまだ緊張しているのか、少し早口のまま言葉を続けた。


「――妖精が、キーパーソンだからね。危ないと思うけど、頼んだよ」

「任せて。二人も、気をつけてね」


 妖精はにっこりほほ笑んだ。それに数拍遅れてから、オリは「うん、ありがとう」と短く答えた。




 ここまでくれば、もう後には引けなかった。


「こんにちは!!」


 気合を入れるというよりも寧ろ自棄っぱちで、オリは堂々と声をあげた。その背後にはミオ、眼前にいるのはくつろいだように寝転がる虎であった。厚みのある後ろ足を放りだしたまま、突如あらわれた珍客に流し目をちらりと送る。

 そしてオリの手にある石剣を目にしても、虎の余裕ある態度に変化はなかった。


「あら、なにかしら」

「私はここを通りたいが、残念ながらそれに値するような品を持っていない!」

「まあそれは……本当に残念ね、ちゃんと探してそれなの? ……じゃあ、あなたの肉を置いていってもらおうかしら」


 恐怖をそそるように虎はぺろりと舌なめずりしたが、オリの態度に戸惑いはなかった。


「却下! 力ずくでも通してもらおうか!」


 そしてそう宣言し、かかってくるかと思われた瞬間――オリは虎に背を向けていた。紛うことなき逃走である。ちなみに明らかにミオのほうがずっと速く、オリはそれに引きずられるようにしながらも懸命に足を動かしていた。

 虎はそんな二人を見送ると、仰々しい仕草で首を横に振った。自分より遥かに劣る生物を哀れんでいるようにすら見えた。

 たっぷり時間をかけて侮ってから、虎は二人の後を追うことにした。音もなく地を蹴りあげ、しなやかな黒い獣は進む。




「虎きてる!?」

「きてません、大丈夫です!」

「わ、罠、は……いける、みたいだね」


 まだまだ元気なミオとは正反対に、オリは息を荒げ肩で息をしていた。さすがの石剣様も、体力までは補正してくれない。

 ぜえぜえ言いながらオリが罠をチェックし終えると、ちょうど角から虎がその姿を現した。四足全てを使い、体中のバネをつかって全身で突っ込んでくる様はさながら突風。


「ひいいすごい速い!!」


 そしてオリはやはりビビった。恐ろしい猛獣が自分を狩るため、正面から向かって来ているのだから当然だ。赤い口内からちらりとのぞく牙に泣きたくなった。ミスったら今晩のディナーへ一直線、お口の中へボッシュート……考えるだけで死にそうだ。

 それでも前に、ここに立たなくてはならない。半泣きで腰が引けながらも、オリは立ちはだかるように仁王立ちした。

 虎はオリよりいくぶん前のところで一瞬力を溜めたと思ったら、


「げっ」


 気付けばその両手を、オリの頭狙ってふりあげていた。その爪は獲物に一度突き立てれば離れないようぐるりと丸まっている。遠目から見れば小さいのだろうが、間近でみれば両刃の大剣とも大差ない。


 予想より凄まじい瞬発力に顔もひきつるが、それでもオリ、もとい今では切っても切りはなせない頼みの綱たる石剣はがんばった。

 爪を避けるだけでなく、オリがぺちゃんこに潰されないようその腕力もうまいこと受け流した。引っかかった爪が剣の表面をガリガリと削っていく音を聞きながら、踵に重心をのせ身を翻す。見れば躱されたことに驚いたのだろう、虎が地に伏せるよう頭を低くし、オリの様子を窺っている。


 そうして必ずくると思われた追撃がこなかったことも、虎がオリの出方をうかがいその動きを止めたことも幸運だった。


「せーの!」


 絶妙なタイミングでミオが投げたのは網であった。全くシンプルなものだがとても大きなもので、虎は横に跳んだが躱しきれなかった。材料についてはノーコメントである。ついでもう一枚投げ、それをオリが引っぱって伸ばし、虎の体を完全に覆った。

 それに続いてブン投げられたのは、なんということはない、あれこれの残骸である。詳細についてはお察しいただきたいそれを、ミオが次から次へと投じる。

 初めはそれに協力していたものの、途中でノーコン過ぎてむしろ邪魔だということを理解したオリは、隣で「ナイスピー……」とさえない応援を送っていた。


 正直ダメージは期待できないが、まあ苛立たせられればそれでいい。思惑通り、虎はただひたすら鬱陶しいだけのそれらに、今まで無駄に澄ましていた面立ちを一変させた。


「よっしゃいまだ、消す魔球」

「ほいさっさー!」


 皮の包みを渡せば、ミオは大幅で一歩跳んで近づいてから、虎の鼻面へと見事それをぶち当てた。当たった瞬間むすびめが解け、黄色の粉がぶわりと靄のように広がる。蛾の魔物からこつこつかき集めた鱗粉だ。こればかりは一匹に対する絶対量が少ないため、これ一つしか用意できなかった。


 咄嗟のことだが、虎の目はきつく閉じられた。しかし吸いこまれ鼻にはいったのは確認した。これなら問題ない。現時点まではパーフェクトといっても過言ではなかった。


「ナイスボール!」


 しかし自分で言うのもなんだが、ビックリするほどお粗末な作戦である。原始人ですらまだマシなものを思いつくだろうレベルだ。まあそれでもひと段落ついてよかった、という安堵からオリは子どものように他意なくはしゃいで、手まで叩いた。ミオはよく分からないポーズをぐにゃっと決めていた。


 一方の虎はそれに呼応するようにがちがちと苛立たしげに奥歯を鳴らすと、ぶるりと首を振った。まとわりついていた粉が吹き飛び、


「ふんっ!!!」


 ぶちっ。鼻息荒くその巨体を揺さぶれば、全ての罠が一瞬にしてはじけ飛んでいく。予想はしていたもののさすがにショックで、オリの意識もそれにあわせて一瞬ブッ飛んだ。努力が水の泡どころか一滴残らず蒸発してしまったかのような気持ちだった。

 しかし、その後すぐ我に返ったオリの行動は早かった。気付けばアワアワとテンプレートな感じで動揺しているミオの手を掴み、回れ右して走りだしていた。しかし、その背に静止の声がかかる。


「待ちなさい」


 そう言われて待つ奴はいないだろう――そう思ったがオリは足を止めた。


「こんな狭いところでなく、広まったところのほうがよくないかしら?」

「はあ」


 あの巨大網からトラップのことを心配したのだろう。それだけでなく、この狭い通路ならオリ達にとって逃げ場はないものの、同時に、背後や側面をとられる心配もなかった。黒虎はそれを考慮したらしい。

 本当に慎重な獣だ、とオリは半ば感嘆した。金をどうこう申し出たときにも思ったが、もしものこと、可能性のかなり低いことまで憶測せずにはいられないらしい。


 笑ってしまいたいのを誤魔化すため、オリがわざとらしく溜息をつくと、ミオがぽんとその肩をタイミングよくたたいた。


「大丈夫です、オリ様。作戦第三段がありますよ!」

「それって……」

「正面突破です!」

「やべぇな死ぬしかない」

「がんばりましょう、オリ様!」

「もう一息だもんね……。というか、それで済むかなぁ……」


 呟き、始まる前からすでに死にそうな顔をしながらも、オリの体は戦闘に備えていた。本当に便利な石剣である。

 ちなみにミオは「えいえいおー!」とアホみたくのん気な声をあげて腕を突き上げていた。


 自分に正面から向かってくるらしい愚かな二人組、もとい本日のディナーを見据えて、黒虎はべろりと舌舐めずりをした。肉は締めたばかりの生が一番おいしい。想像するだけで唾液がわいた。

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