食べ尽くした王様
「僕と共に来てくれないか?」
「は?」
と返したのは、オリではなかった。少し視線を上げたオリは、辰海を睨めつけたまま黙っていた。
驚嘆して声を上げたのは、辰海の肉体と意識に乗りこんでいるルニャとフライヤである。彼女達は、オリと一行を殺すため彼に力を与えたようなものだった。辰海のこれは、明確な裏切り行為である――先に彼を騙してその魂を侵食したのは彼女達だが、そんなこと関係なかった。
ルニャとフライヤは彼の中で騒ぎ、罵倒し、怒鳴りつけた。その声は、オリ達の耳にも届いた。その重なり合った甲高い声は、どこかくぐもって、鐘のように響いて聞こえた。
「ちょっと、聞いてるの!!?」
「返事しないさいよ!!」
それでも辰海が揺らがないので、これはもう駄目だと見切りをつけた。
一つに肉体に一つの魂、そこに乗り込んだ二つの意志。その元の魂を――残してやっていたその塊を、ぱちんと消してしまえばいい。人形の自分達にはなかったそれがどこにあるのか、ルニャとフライヤにはよく分かった。生々しい存在感を、押し付けてくるような不定形の何か。命から溢れでたらしい奇怪な産物――。
「魂を潰せば、あんたも終わりよ!」
「そうよ裏切り者! 死になさい!」
文字通り、辰海はルニャとフライヤに命を握られている。
しかし辰海の精神は、表情そのままに穏やかで、凪いでいる。
「そういうことをするんだね。でもそれなら、僕の方がもっと上手にできるよ!」
ちょっと、ねえ、と小さな声が聞こえた。それが、辰海の頭の中で響いた、彼女たちの最後の声だった。
辰海はその場で、ルニャとフライヤの残滓を完全にすりつぶした。奥歯で噛み潰すように。
「消すんじゃないよ、食べるんだ! これが一番簡単なんだ! 心も魂も意志も自我も精神も、全部ぜんぶ食べてしまうのが、一番手早くて、楽なんだ……」
オリは黙っている。辰海の様子を観察している。食べる、という言葉に、蛭男と蜘蛛女を思い出しながら。
彼は嫌な影響を受けたんだな、と思った。
「ほら、僕を見下す奴らは皆こうなるんだ。僕を虐げる奴らは皆消える。邪魔者はみんないなくなる……」
にい、と口角がつり上がる。背後の窓――といっても、窓ガラスがあるわけでもなくただ空間があるだけのもの――から、天井の光源の光が差し込み、悪魔のような顔に見えた。
「――おっと、邪魔が入って答えを聞き損ねていた。どうかな?」
「断る。貴方が私の下につくって言うなら考える余地も……まあなくはないけど。そうじゃないなら、誰であれ無理」
「そうか。見返す僕を観測する人が必要だったんだけどな」
「私じゃなくてもいいよね、それ」
他の人を誘うべきだろう、とオリは言外に辰海に伝える。腕を組んで、辰海を睨みつけているが、ただ呆れているだけだった。
「君が綺麗で、強くて、強くて、美しかったから」
「だからあの時に引きずり倒しましたって? ……忘れると思うか? あの時お前、私に、何て言った?」
辰海は答えない。
「お前が、私に、ズルいとほざいた、あの言葉を、忘れるわけないだろ」
「……根に持つね。残念だ。本当に、残念だ……」
残念、という表情ではなかった。オリの戦意はすでに燃え、揺らぐこともない。戦闘態勢をとり、いつでも辰海を襲うことができる。
しかし辰海は目の前の敵に焦ることもなく、ただゆっくりと微笑んだ。
「もう少し喋ろうよ。暇をしてたんだ」
オリは躊躇った。時間稼ぎかと思ったのだ。しかし、仲間も友人もいないだろう彼に、それをする意味があるのか。罠か。それとも。
「人間同士。ここに落ちてきた落者同士。ゆっくり話してみたいと思ってたんだ。戦いの後じゃ、言葉も変わってしまうだろうから」
「……いいけど」
「いいんだ」
ぱっと、辰海の顔が綻んだ。表情の緩急のせいか、存外、幼い顔立ちをしているように見えた。オリが言えた義理ではないかもしれないが。
お喋りの後では殺し辛いか? とも思ったが、彼の言葉に同意できる部分があったためだ。
オリがその場に腰をおろし、地べたに座ると、辰海は客人を相手にする主人のように品良く微笑んだ。
「君は、そもそもどうして迷宮を下る?」
「……は?」
オリがぽかんとすると、辰海はぺらぺらと続ける。
「脱出が目的だったのに、なぜ君は下っている?」
「今の目的は脱出だけじゃない。ミオの仇である天使達に、復讐したいと思って進んでいる」
「違う。そうではない。それは下り続けた結果の話だ」
「……」
「そもそもなぜ君はこの迷宮を下り始めた?」
「最初は、……怖かったから。私はこの迷宮には、頻繁に罪人が落ちてくると思い込んでいた」
「なぜ下り続けた?」
「元の世界に帰る方法が分からなかった。万が一くらいの希望が、最下層にあった。最下層に行けば、なんとかなるかもしれないと思った」
「なぜ下り続けることができた?」
「仲間が増えて戦力が増えた。リューリンが故郷に帰りたいと言った。連れていってあげたいと思った。ミオの故郷にも興味が出た。行ってみたいと思った。二人がいてくれて安心したから、私は進むことができた。それから仲間も増えて、トゥケロに、スライムさんに――」
「どうして戻らなかった?」
「え?」
「どうして、最上層に戻らなかった?」
どうして?
「……上っても、脱出方法がない」
「本当に?」
「……」
「本当に、それを考えた? 仲間に相談し、手段を講じようとした?」
「いや、」
「どうして?」
どうして? ……。
「少年が言った。上に出口はない。最下層に希望がある。いや、私は彼の言葉を信じていない。が……一本道だ。希望に向かって進むか、戻るしかない。そして私は、私の希望は最下層にあると思った。……どうして?」
オリは独りで喋っている。辰海の視線を感じるが、彼は口を挟まなかった。
「どうして? なぜ? なぜ私はそれを考えなかった? 誰にも相談しなかった? なぜ当たり前に下り続けた? 最下層を目指す以外何もしなかった? なぜ?」
「なぜだろう」
「貴方はなぜここまで下ってきた?」
「死にたくなかった。道があった。だから来た。――君のお陰だろうけど、敵も少なかったからね。僕は進みやすかった。そして僕は帰りたいけど、君ほどあの世界に未練もないし、帰れるとは思っていなかった。だから、ここで生き延びられたら、あとはどうでもいいんだ」
「そう。わたしは……、なにかを、操られている? あの少年の、都合のいいように? 地下に、地下に進むように……」
「だとしたら、どうする?」
辰海の笑みが深まる。
オリは、
「……まあ、別にいいかな」
「は?」
「それでもいい、って言ってる」
瞠目する辰海に、オリは笑う。
「最下層に希望があるかどうかなんて、誰に分かる? 少年の言うことが嘘だと、誰に判断ができる? ……パンドラの箱は開くまで中身が分からなかった。私がそれを開けて、確かめてやればいい」
「つまり、あるかないかも定かではない可能性に賭ける? そんなの馬鹿のすることじゃないか!」
「賭けるんじゃないよ。確かめに行くんだから」
俯いた辰海が手を震わせるのを眺めながら、オリは続ける。
「操られているのかなんて分からないけど、だとしたら、そんなことをする価値のあるものが、そこにはあるんじゃないかな。だったら私は――」
「……い」
「なに?」
今度はオリが聞き返す番だった。辰海が俯いたまま、声を震わせる。
「ずるい」
「はあ」
「ずるい! なぜそんな風にいられるんだよ! そんな、僕は、だって……! それにつまり結局君は、僕を置いていくんだろ!? そういうことだろ!?」
「まあここに残るとしても、お前と一緒に過ごす予定は立てないね」
「どうして……」
「暴君だし、なにより今話した感じ、私達、気が合わないと思うよ」
オリはきっぱり言い切った。まず彼とずっと一緒にいたいと感じたことは一度もない。一時期行動を共にしていたのは、無力な彼を保護するためだ。少なくとも今は必要ないだろう。
おまけにオリも仲間たちのリーダーをしている。そこに王として振る舞う辰海がきたら混乱間違いなしである。
「上に立つ者が、並び立つことはない。私に貴方は必要ないし、貴方にも私は必要ない」
「結局こうなるのか。僕たちって」
「そうみたいだね。どうする?」
尋ねながら、オリは立ち上がり、埃を払った。それはまるで、すでに、何をするべきか分かっているかのように。
「僕は、君と違って、殺し合いってしたことないんだ。作法とかあるのかな? どう始めればいいんだろう?」
「その言葉だけで十分じゃないかな」
オリはちょっと笑った。そして、武器を構えた。




