辰海の覇権
夢か現か分からない。
辰海が目を開くと、自分を苛めた奴が目の前にいた。取るに足らない高校生。染色した髪、締まりのない顔立ち。
辰海を嘲笑い、罵倒した唇が震えている。
「お前、死んだんじゃ……」
辰海は微笑む。
――お前には分からないだろう。
理由も知らされず身勝手に呼ばれ深淵にぶち込まれて取っ捕まって不潔な床に芋虫みたいに転がされて餌として動けぬまま拷問されて。傷つけられていたぶられて一方的に暴力を振るわれる、そんな俺の気持ちはお前には分からないだろう!!!
気付けば、目の前にそいつが転がっていた。靴跡だらけで、まるでボロ雑巾のような姿である。
それから、己の足元に取りすがる中年の女がいた。髪を振り乱し這いつくばって、がたがたと震えて、怯えている。
「お願いです、やめてください、お願いです、やめてください」
と。口から泡を吹くのも構わず、ひたすら念仏のように唱えている。
それの母親のようだった。彼女の息子を延々蹴飛ばし続けた辰海の足首を、必死になって両手で掴んでいる。汚いので振り払うと、女は顔から床に倒れ込んだ。ボロ雑巾はもがいて、やめろやめろとほざいている。
もう一度蹴飛ばしてやれば、そいつは呻いてすすり泣き始めた。母親もだった。
「お願いです、やめてください……」
「じゃあ土下座しろよ」
言えば母親は目を瞬かせたが、すぐ床に手をついた。床に頭をぶつけながら何度も謝ってくるのをしばし観賞してから、辰海は彼女の頭を蹴飛ばして横を向かせた。芋虫みたいに転がっている、彼女の大切な息子の方向へ。
「俺じゃなくて、お前の息子に」
言いながら、辰海がその大事な我が子に向けて足を振りかぶれば、母親はまた喚く。
「土下座して、『こんなクズに育ててごめんね』って。ほら。謝って下さいよぉ」
辰海は母親の腹を蹴ってそいつのすぐ傍へ送ってやる。衝撃で吐き出した唾液を拭いながら、母親はそいつの元へ這っていった。泣いているようだった。
――だけど俺は悪くない。俺を傷つけたお前らが悪い。
母親に何事か言おうとした、馬鹿な男の背を踏んでやる。擦れた声で揃ってそっくりに泣きながら、二人は俺の足元で這いつくばる。
(ひどく気分がいい)
だって全部こいつらの自業自得なのだから、俺が気を病む必要なんて何一つない! こんな人間にうっかり手を出してしまった奴らが悪い、自業自得だ。俺は正しい、俺だけが正しい! 俺だけが正しいということは、世界でただ一人の神になったということだ!!
「大丈夫。殺さないよ」
哄笑から一転、辰海は鋏を取り出した。つるつるした青色の柄の鋏――以前辰海のノートや私物を切り裂いた、この男が持っていた鋏である。
辰海は静かに微笑み、彼らの手足を眺めた。
延々、こういうことをしている。こういう夢を繰り返している。罪に罰を与えている。
楽しい。かつての妄想が全て意のままである。惨めな自分が報われる気分だ。
――あの青い鋏、と辰海は思い返す。我ながら、あんなものよく覚えていたものだ。自分の中のどこから出てきたのだろう、と思う。
力を得てから、甚振る夢は見ても甚振られる夢は見なくなった。それが一番幸福だった。
オリ達が次に訪れたのは、泥や、棒でこしたえた人形のような生き物ばかりの町だった。泥人形の方は、『森』で見た、チナの偽の新郎とよく似た外見である。もしかしたら、ここが彼の故郷かもしれなかった。
今まで見たことのない、四角い建物が箱のように並び、時には積み重なって町を形作っている。今までのような、だだっ広い空間に建物が偏在しているのではなく、本当に、整備された”町”のようだった。建物の合間に細い道があり、それが区画のように空間を区切っている。
しかし時を経て劣化しているのか、いくつかの――割合としては多くの建物が崩れきっていた。この様子では、他も危ういかもしれない。とてもじゃないが、住みたいとは思えなかった。
「『王様のいる、建物が建ち並んだ町』って聞いたら、この迷宮内なら結構悪くないように思えるけど……」
「外見だけって感じねえ」
此処には『王様』がいるらしい。
白い髪をした、オリと同じくらいの年頃の人間の王――暴力でこの階層を抑圧した、悪逆非道の王。
望みどおりの力を得た辰海は、周囲を迫害し、王のように振る舞っている。
牢屋の隅で彼を見かけたときは、虚ろな目をして、暴力を恐れ、その怨嗟を垂れ流していた。だというのに、今では彼がそれそのものだ。
「何がしたいのかさっぱり分からん」
オリは率直にそう零す。
「力を得て、それで何がしたいのかが見えない。正直行きあたりばったりに見える」
「力そのものが目的なんじゃないでしょうか」
オリの疑問に答えたのはスライムだった。
「え?」
「だって、虐められないじゃないですか。力さえあれば、何も恐くないじゃないですか。それって大事だと思います」
「……なるほどね」
辰海は暴力を恐れている。嫌悪している。そしてオリの推測ではあるが、そこで止まってしまっている。停滞している。
彼の過去に何があったかは知らないし、知りたくもないが、余程強烈な体験があったのか。心も、意志も、その記憶に侵食されている。そこから抜け出せず、立ち止まり、動きのない水がそうなるように淀んでしまっている。少し進んでも、あっという間に引き戻されてしまう。そういう人は、永遠にそこから逃げられないのか?
「(……ミオの死を引きずっている私に言えたことか?)」
彼の淀みは、さらなる悪意――オリの知る限りでは、安寿の裏切り、蛭男の所業――に直面し、より深まっていった。
そして今。彼は全てを発散するかのように力を振るい、誰にも虐げられない立場にいる。
「色々考えると、少し分かってきた。ここ、力で制圧するにもってこいの世界だからね」
小さな箱庭のような空間。分断され、少数が生活している。各々その階層に住み着いており、移動も稀。よその階層との繋がりはほぼない。
少数の住人さえ制圧してしまえば、救援がくることもない。逃走は起きづらく、そもそも出入り口が二箇所しかないため防ぎやすい。そこさえ見張っておけば、侵入者も確認できる。
もちろん、辰海もそのことを認識しているのだろう。この階層の、オリが入ってきた入口にも、門番のような者がいた。人形のような見た目だった。
しかし――
「私はここの見張りなんだ。誰も入れてはいけないんだ」
「ああん? アタシらとやろうってのぉ?」
「殴らないで。通すから。誰にも言わないから」
「え? ああ、うん。分かればいいのよ、分かれば」
自分より遥かに小さな妖精に怯え、槍を持った泥人形はあっさりと道をあけた。凄んだ張本人である妖精ですら、その速やか過ぎる展開に唖然としていた。
この階層の住人たちは、得てしてこのような体たらくだった。
「やあ、どうも。こんにちは」
オリ達に挨拶をくれる。言葉は通じる。しかし会話すれば分かるが、彼らはあまりにも意志薄弱だ。
現状について質問すれば、
「よく分からないな」
「特に何もない。分からない」
辰海について意見を聞けば、
「殺される。怖い」
「怖い。何もしたくない」
これだけだ。
おかげで、オリ達のことが辰海に密告される恐れもなさそうだが……建物が崩れ行くこの町で、平然と暮らしているのも理解できる。
「……武器を探しに行ったクレイグには残念だけど、この町にはきっと、碌なものがないだろうね」
「あの人、空回りしがちですね。私と似ています!」
「そんな悲しいことで喜ばないでよ、スライムさん……」
クレイグは先ほど一人、斧が修理できる店を探しにいった。あの動く鎧との戦いで一部欠けてしまったらしい。すぐにしょんぼりと戻ってくる姿が目に浮かぶ。
クレイグの帰りを待ってもいいし、この崩壊しかけた街を探索をしてもいい。さてどうするか、とオリ達が突っ立っていると、ついさっき挨拶した泥人形らしき生物が、また現れた。オリは首を傾げた。
「あれ、さっきも会った人?」
「はじめましてです。どうも」
「どうも」
オリが手をあげて応えると、泥人形はさっさと去っていった。……正直、彼らは外見的にも僅かな差異しかない。少し大きいか、小さいか。細いか、太いか――その程度だから、誰が誰かすら判断がつかない。
今までキャラの濃い住人ばかりだったので、少し拍子抜けではある。
「ほんと木偶ばっかり。はーつまんね」
しばらく悪態をついていた妖精だが、やがて溜息をついて、オリのパーカーのフードに潜り込んでしまった。曰く、「文句言う価値もない。時間の無駄」とのこと
はいはい、と後ろ髪を上げて妖精をフードに迎え入れるオリの横、立っていたトゥケロが目を細めた。彼は無言のまま、生気の薄い住人らを眺めている。
「どーかした?」
尋ねながらも、オリは彼が次に何を言うか分かっていた。
今まで出会ってきたキャラの濃い住人達のなかに、ここの住人そっくり――というより、そのものなヤツが一人いたのを、覚えていたためだった。
「……ここは、アイツの故郷かもしれないな」
「アイツって、チナさんの新郎だった、あの明らかスパイ野郎?」
「そんな気がする。ただの勘だが」
「あの人とここの人達は、中身はまさしく正反対って感じだけど」
「だからこそ階層を移動したんだろう。いや、これも勘だが……そこまで、間違っていないと思う」
――最後、宝石をせっせと拾い集め、自分の腹に押し込んで収めていた姿を思い出す。
怒り狂ったチナに、食い殺される直前までそうしていた。それらが、命よりも大切であるかのように。
欲深で、浅はかな生き物の、いっそ哀れな光景だった。しかし、外見ですら差異のない仲間の中で育った、そんな彼にとっては、腹に貯め込んだ宝石だけがアイデンティティだったのかもしれない。
「……どうした?」
「ううん。さて、それより辰海をどうするかだね。私達は彼を放っておいて、次の階層に進むこともできる――」
「そうする気があるのか?」
トゥケロに尋ねられ、オリは顔を顰めた。
「やめてよ、人をバーサーカーみたいに言うの。確かに襲われた恨みはあるけど、だから殺しにいくって言うつもりはない」
「理由がないと? ふむ。支配されている、哀れなここの住人の解放なんてどうだ? ほら、支配時に意味なく何人か殺されたと言っていたじゃないか」
「まあ……」
「追加で別の理由もある。――オリはいずれ、この監獄迷宮を脱出する予定だ。つまり、最下層におりたあと、次は上に上がることになる。その時、辰海がこの階層から縄張りを広げていたら厄介だ。違うか?」
「敵は未熟なうちに叩いておくべき? まあ、確かにそうか。後々、群れで襲ってきたら面倒だし」
今後の方針は決まった。一応、敵の陣地ど真ん中にいるとは思えない会議ぶりであった。
「みんなはそれでいいの?」
「戦いですね、頑張ります。はい、ええ、できるかぎり……」
「ねえ、リューリンは、……寝てるな」
「ほっとけ。オリが進むならそいつも付いていくだろう。俺も同じだが」
「そう言いながら、自分の思うとおりに進ませようとしてない?」
「ただの助言さ。こちらから見て、その方がいいだろうってことを伝えている。心配と善意。他には何もない」
トゥケロの発言が、おおよそオリのためであるのは、オリ自身よくよく分かっている。彼がそういう人だというのは、今までの旅でよく理解している。
ただオリよりもずっと上手なので、たまに掌で転がされているような気がして複雑になるのだ。有能な仲間がいる証拠なので、もちろんありがたいのだが。
「しかし辰海とやら、階層を支配しているようだが、どうにも――」
「え? 何か変?」
「変というか、そう、ゆるいな。監視の目もろくにない」
トゥケロは不思議そうにきょろきょろしている。かつて『森』を維持するため、あちこち奔走していた身としては奇妙に思えるのだろう。
「元々フツーの高校生……えーっと、フツーの人だからね。いきなり支配することについて頭は回らないと思うよ」
「力を得たばっかりで、ハイになった状態なんでしょうね。分かります」
「変なとこで共感するよね。悪堕ちとかしないでね」
「しませんよ! 私はまっすぐ正々堂々と、強い強いスライムを目指すんです」
「強い強いスライム」
すげー弱そう、という本音をオリは抑え込んだ。
「まずは体積を増やすべきだろうな。デカさは強さだ」
「でも大きくなったら、身軽じゃなくなるでしょう?」
「いや、そもそも物理が効きづらい身なのだから、身軽さを重視しなくてもいい。どう成長するか――現実と理想を認識し、どちらかに偏りすぎないことも、強くなるためには重要なことだ」
「なるほど。つまり、思い描く道筋を間違えないこと……ですね」
「そうだな」
「でも大きくなり過ぎたら、隠密行動とかし辛くなるから別行動だね」
「やめておきましょう!」
即答だった。
そういうところは相変わらずだ。オリは苦笑した。




