虎落が笑う
ぼやかしたグロテスク描写あり、注意
オリが、咽喉が渇いているらしいミオをつれて一旦帰還すると、妖精はきょとんとした顔で二人を迎えた。
ミオが勢いよく水を飲んでいる傍らでかくかくしかじかわけを話すと、妖精は両手を腰にあててオリを睨んだ。
「あっそ。よかったわね……って、違うでしょ! 道具集めしてくるんじゃなかったの!?」
「だってのど渇いたっていうから……」
ちらりとミオを見れば、泉に顔をつっこんでガボガボと溺れているような音をたてて水を飲んでいた。
(あれ私も飲むんだけどなぁ。止めてほしいなぁ)
それでも必死なところを止めるのも可哀想なので、オリは心の中で思うだけにした。
「そうだ、ミオもコワーイ魔物を見たんでしょ? どんな感じだった?」
その言葉に顔中べちゃべちゃにしたミオと、「強い人間でも通らないかな……。こうなったら一人で倒すしか……やっぱ無理かな……」なんてぶつぶつ呟いていた妖精がこちらを振りかえった。
「こーんなに大きいんです! それで鼻息が荒くって、四足歩行で、声が大きくて、歯が鋭くて……アッチ向いてる隙にお肉投げてダッシュで余裕でした、わん!」
ミオはそう言うと、伸ばして振り回していた手をひっこめて、自慢げに胸をはった。
明らかに供物を捧げているのだが、それは余裕と言っていいのだろうか。
一方の妖精は記憶さえも不快なのだろう、ふん、と鼻を鳴らしてから握り拳をつくった。小さい拳がぷるぷる震えているのはすこしかわいかった。
「偉そうにしてあいつぅう、人のこと羽虫呼ばわりしてあいつぅう」
「羽虫!? それはひどすぎます、わん!!」
「ねー!? そうよねー!?」
妖精にとって羽虫系の言葉というのは、よっぽどひどい罵倒であるらしい。
彼女たち魔物の価値観はよく分からないが、ものすごく勢いづいてキーキー怒る妖精を見て、いざという時以外は決して口にしないようにしようとオリはこっそり思った。
それからミオと、恐らく情けないオリ達を監視することに決めたのだろう、飛んで付いてきた妖精をつれて歩きまわってみたが、迷宮には何もなかった。宝箱も、隠してあるアイテムも何もなし。
いるのは、どこから湧いてきているのかよく分からない魔物ばかりだった。
というわけで、集まるのも魔物から剥ぎとったアレコレ、ということになる。
――なぜそういう結論に至ったのかは、人間であるオリにはよく分からない。
割と、当然でしょ、みたいな流れでそうなったことは覚えている。
その作業については、
「この蛾の鱗粉は使えるんじゃないかしら?」
「肉とー骨とー皮に分けてー、わんわん」
「おええー」
……あまり、思いだしたくない。
とりあえず、胃が空っぽでよかったという感想だけ残しておこう。
ちなみに、そんなことをしていれば手は汚れるものだ。そんな不愉快な手のぬるつきを落とそうにも、石鹸どころか要らぬ布すらない。
妖精ときたら、遠慮なくオリの制服で汚れを拭おうとしてくるものだから、つい怒鳴ってしまった。
これだけが、自分が自分であるという理性の、そしてオリがただ依っていた文明社会の証だったから。
ひるんだように「そんなに怒ることないゃない」とブツブツ呟く妖精をよそに、オリは油でテカる手のひらを見つめていた。
何もないと思っていた。なくしたと、奪われたと思い込んでいた。
だけど、なんだか色々と持っていたようだ。
惨めな依存だとか、汚れを厭わぬ下種さだとか。
それから、ただの自尊心だとか。
「はぁ……」
オリは溜息をつくと、スプラッタ映画顔負けのモザイクもダッシュで逃げるような光景を振りはらうように、ぶんぶんと頭を振った。
泣いたせいで少し目尻が痛かったが、まあどうでもいいことだ。とりあえずこの新鮮なアレコレを活かせるような作戦を立てなければ。
山のように積まれた悪臭漂うそれらが目にはいらないようにしながら、オリはミオと顔を突き合わせるようにして座っていた。ちなみに妖精はオリの頭に寝っころがっている。
「――話をまとめると、四足歩行で歯が鋭い、黒い毛皮の大きなコワーイ雌の獣ってことでいいかな?」
「ドケチで意地悪が抜けてるわ」
「はいはい」
「それから、大きさはこの通路を通りぬけられるくらい。通ろうとするとプレゼントを要求してきます、わん!」
プレゼントを要求、というより貢物を強請ってくると言ったほうが明らかに正しい。
まったくかわいらしい言い方をするんだから。オリは先ほどの、鋭い爪で躊躇なく肉を解体していた光景を、今の光景――のほほんと笑うミオで、しっかり上書きをしておいた。
豹変するでもなく平然とやってのけた姿がまた恐ろしかった。
「一回様子見にいってみる?」
「怖いからやだー」
「このチキンっ」と痛くない程度に頭をたたかれたが、それでも近寄りたくないものは近寄りたくない。別にわざわざ見なくても、対策ぐらい取れるんじゃないでしょうか。たぶん。
しかし。
「アンタ、帰りたいんじゃなかったの?」
妖精が叱りつけるように、ぎゅっと目を細める。
そう言われると、もうどうしようもなかった。
「虎じゃねーか!!!」
虎だ。どこからどう見ても虎だ。あの顔付きあの歩き方あの毛並み、虎じゃないところなんて黄色部分まで黒いという点と、それから普通のものより巨体である点、ホントにそれだけだ。
今その雌の黒虎は、部屋の中を我が物顔でのっしのっしと円を描くように歩いている。
「あいかわらず性格悪そうな顔した女ね……」
無表情だよ。
「む。すこし小顔ですね、オリ様」
わかんねぇよ。
偵察を終えた三人が部屋からだいぶ離れると、オリがうわああっと発狂したかのように叫んで頭を抱えた。
「無理ムリむり、女子高生が千歳飴で勝てる相手じゃないってほらアレ動物園で見たことあるもぉおん!! 檻の向こうのあれだってあれえええ!!!」
平時から隔離されているような存在と何が悲しくて戦い合わないといけないんだ。あれならまだ魔物のほうがファンタジーでよかったかもしれない。
テレビ番組や知識として恐ろしい姿を見せつけられている現代人にとって、虎は少しリアル過ぎる。
「別に一対一で殺しあえって言うんじゃないんだから。オリは人間でしょ? 人間は賢くて狡いんだから頭を使ったらいいじゃない」
「虎の餌で虎を倒すのおお?」
自分たち含めたなかで唯一食べられそうにないのは、千歳飴じみたオリの石製の剣だけだろう。
「人間の脳みそはすごいらしいので、期待です! それにこっちは三人、あっちは一人。ケッコー余裕です、わん!」
「お前は何を言っているんだ」
一瞬励ましてくれているのかとも思ったが、ミオは心からそう思っているらしかった。オリは戦慄した。そして同時に、自分が考えるしかないのだということも理解できた。
というより、いきなりレベルが上がり過ぎじゃないだろうか。蛾に半蜥蜴の獣、その次がいきなり虎て。小問一、二ときていきなり大学入試レベルの問題が来たかのような跳びっぷりだ。ミオや妖精が下層から来たように、あの虎も恐らく上がってきたのだろう。
「密林に帰れよ……」
ちなみに、下層に密林があるのかどうかは不明だし、あの虎が地球のように密林に生息しているのかも不明だ。それでも言わずにはいられなかった。
うう、と呻くオリに、妖精がすこし不安げな顔をした。
「オリ。なんにも思い浮かばないの? 勝てる確率まったく無さそう?」
女子高生と妖精と犬人間が、虎の餌をつかって虎に勝てる確率。
「確率、は……ゼロじゃない……ゼロじゃ、ない……」
しかし限りなくゼロに近い。
しかしやれないこともない。
できるかぎり罠だけで弱らせて弱らせて、死にかけの状態にしてから殺す。そうでなければ挑んでも勝てる気がしない。しかしその罠に使えるのは、虎の餌になりそうなものばかりである。それでもやらなければいけない。卑怯も無理も嫌も押しのけて、勝って先に進まなければならない。
「ううう……」
「がんばりましょう、オリ様!」
「どうしようもないし、私も手伝うわ。ね?」
大丈夫、なんとかなる、頑張ろう。
頑張れば、女子高生でも虎を狩れるってところをみせてやる。