番外:クレイグの導き
クレイグが、この迷宮に落とされて、どれほどの時が流れただろう。
人間は陽の光を浴びずとも生きていけるのか。死なないのか。それとも、ここは最早死の国で、自分はすっかりその住人になってしまっているのか。
分からない。知りたくもない。
魔物は予想外に温厚だった。クレイグは、自分はあっさり腹でも裂かれて死ぬかと思った。しかし彼らは、そこまで野蛮でもなかった。だいたいが、それなりの規律を持って生活しているように見えた。
クレイグを見たときの反応は、遠くの野生動物を見かけた人間の行動と同じ。人間だ、と認識して、それだけだ。警戒や、興味、無関心などはあるが、殺意はない。また、クレイグが近寄ろうとしなかったため、彼らも近寄ってこなかった。とても、落ち着いている。
本当にどうしもない、猛獣みたいなのもいたが、一応クレイグも傭兵であるため、戦ったり逃げたり、それなりにやり過ごすこともできた。
一度、黒い巨大な虎を見かけたときは、息を飲んで死を覚悟したが、彼、あるいは彼女はクレイグには気づかず、のそのそと上階の方へと向かっていった。
――これから落ちてくる奴らは、きっとあの虎に食われてしまうだろう。
そう思ったが、クレイグに出来ることはない。するべきことは、生き延びること。それが第一。そして次に、いつかここから、生きて抜け出すこと。地上に帰る。きっと。絶対に。
「どうやって?」
分からない。そもそもクレイグは、処刑されただけだ。迷宮に落とされて、それで終わり。説明もない……いや、一つだけあったか。
『最下層にゆけば、助かる道もあるやもしれません』
戯言のような説明だった。決まり文句のような説明の一文。
だからクレイグは下層に向けて進んだ。それ以外の希望がないからだ。この暗い地下の迷宮では、クレイグの道標は、そのつまらない一文以外に存在しない。
――死刑か、監獄迷宮か。
最悪な二択だ。それでも後者は、前者よりはマシだろう。そう思って、前向きに考えて、クレイグは歩いた。
途中の階層で、居心地の良さそうな、生活できそうな空間があると、そこに居座った。身体の、そして精神の疲れを取るため休み、鍛錬をして、別の人間が落ちてこないか――あの黒虎のせいで絶望的だろうが――待ち構えた。一人で行動するより、複数人で行動したほうが効率もいいし、生存の確率もあがるだろう。
しかし、誰も来ない。
(予想通りだ)
予想通り誰も来ないのを待つのは、楽しい時間ではなかった。食事をとって、眠り、また次の日になって、鍛錬をして、食事をとる。眠る。繰り返し。
結局、しかたがないと諦めて、一人で先に進む。またそこでふと、もしかしたら、と思い、誰かを、何かを待つ。やがて迷宮内での生活にも慣れる。誰もこない。また先に進む。誰もこない――。
この迷宮には何もない。壁に囲まれた限られた空間。日も当たらず、風も吹かず、天気なんて当然変わらず、時の流れすら曖昧だ。常に一定で、落ち着いて、静止して、停滞している。生きることはできるが、それだけだ。ここには、それ以外の何もない。
可能性も、希望もない。
(何も見えない……)
また一つ下層に移動し、身を隠せるところを求めて彷徨い、石造りの建物を見つけた。
洞窟もそうだが、こういう所はだいたい、既に魔物に利用されている。そこを勝ち取った、強力な奴が多い。用心して離れた。
(さっさと次の階層に行ってもいい。が、行ってどうしろってんだ……)
閉塞感を覚えるクレイグの前に現れたのが、安寿だった。(正確には、この時点では彼女の名前は知らないのだが)
始めは、ヒトの顔をした幽鬼だろうと思った。死骸の血肉をすするようなヤツだ。赤っぽい髪に、ぎらついた目。薄気味悪いほどに冷ややかな空気を纏い、奇妙なほどに無表情。
「……あなたは? あなたも人間?」
「あ、ああ。俺は、レクドラトのクレイグ。お前は――」
「待って。ここじゃあなんだから、良ければ移動しない? あっちに、世話になってる魔物の家があるの」
言って、彼女が指さした先には、あの石造りの建物があった。
世話になってる魔物、とクレイグは考える。この迷宮に落ちてきて、色んな魔物を見てきたが、実際に関わったことはほとんどない。水が飲めるのか、この果実は食えるのか、その程度を尋ねたことはある。しかしそれも、偶然行き違った通行人程度のものだ。
彼らが思いの外落ち着いていることは知っているが、実際どのようなものなのかは、知らない。分からない。
「その魔物ってのは……」
「悪いやつじゃないわ。この迷宮の魔物って、見た目は変わってるけど、結構お人好しよね」
「そう、か」
この安寿という人間のように、親切な魔物とともに生きる道も、クレイグにはあったのかもしれない。
しかしクレイグは、人間に会いたかった。この何も見えない地下迷宮で、できることなら、人間とともに行動したかったのだ。
処刑され、上の世界から消された自分の人間らしさを、忘れたくなかった。
「……来るの? 来ないの?」
「迷惑じゃなければ、邪魔させてもらうかな」
人間らしさへのこだわりを捨てることはできない。しかし、魔物を避けるだけじゃない、新しい道も自分には必要なのではないか、とクレイグは思った。その新しい道が、安寿の生き方の中に見つけられるのではないか、とも。
……まあつまり単純に、このままではいけない、とクレイグは思ったのだ。先行きが見えず、どうしたらよいのか分からない不安を、解消したかった。
で、その向上心の答えが、牢の中。
蛭のようなヒトのような気色悪い魔物に捕えられたのは、安寿に案内された石造りの建物の中だった。
心底自分がアホみたいだった。
牢の中、彼は自問する。
――俺は何をしている?
どこにも行けない、行き方も分からない。俺は何をしている?
ある日、辰海という人間が新しく、餌として連れてこられた。物憂げな顔立ち、貧弱な肉体、虚ろな目。現実に耐えられず、常にぶつぶつと独り言を呟いている。
安寿はあれから姿を現さない。
――しかしここから出て、俺はどうしようというのか。
導きがほしい。暗闇を灯りなしに超越できるほど化け物ではない。しかしこのまま深淵にいては、人でいられない。
導きがほしい。誰か何か、己を導いてくれぬものが。光へ。地上へ。
自分を人たらしめる何かが、いつか、……。
そして、いつかは現れた。
いくつかの話し声、小さな靴音。牢を見て、黒い目が瞬く。そして、通りすがるついでのように、声がかかる。
「あの、」
生きてますか? とでも言い掛けたのだろう。彼女は、驚きに目を見開く。
クレイグには答えようもない。何故か唇に笑みが浮かぶ。
「……にんげん?」
――神すらおらぬこの地底で、一体何に感謝を捧げる?
子ども。くたびれた靴に、変わった衣装。ぽかんと開かれた口に言葉はなく、代わりに口唇がわなないていた。
「よ。こんばんは、お嬢さん」
クレイグは笑う。今なら神の影うつる地べたにだって接吻できる。 むしろこの子どものそれにも。
――嗚呼ありがとよ神様、あるいは天頂の星。
この子ども、娘がいくら脆そうだからといって、奇跡であるには違いない。地上へのきっかけ、始まりになればいい。
なんだってしてやる。だから頼む、俺の『導き』になってくれ!
内心で叫び、クレイグは親しげに、その子どもに声をかけた。
「ずいぶん待ったぜ」
この番外編でこの章は終わりです




