「可哀想に」
オリ一行は、しばらくこの階層で休憩を取ることになった。目的は二つ。精神・肉体の疲労回復と、
「ん、なんだ?」
この世界の人間・クレイグが、本当に共に行動するのかという、確認の為でもある。
いつもどおり開けた場所で適当な輪を作り、めいめい寛げる格好になる。
……立派な建物は二つほどあるが、どちらも不潔だし、捕らえられていたクレイグにそこで休もうと提案できるほど厚顔ではない。
オリはふと、この階層にきてすぐに発見した、もう一つの家について思い出した。樹木を抉って作った、内部におびただしい血痕の残った、何者かの住処(恐らく、『だった』が付く場所)。
そういえばあそこには、複数の斬撃の跡が残されていた。あのクソ雑魚蛭男ではないだろう。安寿も辰海も、そういった武器は所持していなかった。……疑ったのは横で自分の斧の調子を見ているクレイグだが、落ち着いて思い出せば、斬撃の跡は、彼の背丈でも届かない場所にまであった。
――あれは、なんの仕業だったのか。
銀翼の天使の仕業だったら倒したいが、あいつらなら建物自体を破壊するだろうから、恐らく違う。
とりあえずクレイグに直接尋ねてみたが、心当たりはない、とのことだった。
「じゃあ蛭男は、何か言ってなかった? 翼の魔物じゃなくても、なんか強くて怖いのがいるとか。聞いたことない?」
「それはないが、そういえば一回、気になることを聞いたな」
クレイグは縛られ台に寝かされたまま、今まさに振るうための鞭をチェックする蛭男の、その独り言を聞いた。
『……まさか、弱くて助かるとはねぇ。しっかし腹も膨れねぇことに、よくもまあああして熱中できるよなぁ』
熱中、という言葉は、銀翼の天使たちには無縁なものだろう。じゃあ何が、と思うけれど。
「その後は鞭で打たれてたから、覚えてないな」
「……」
「そんな顔しなくても、殺されない程度だったからな。それに最低限の飲食物は貰えたし、普段は寝てるだけでいいし……まあどう考えても最低な環境だったが、探せばいいとこもあったぞ」
「メンタルがヤバいんだよなあ……」
弱い方にでなく、強い方に怖い。
辰海とクレイグ、まさに正反対の二人が捕まってたんだな、とオリは思った。
「それに魔物に怯えず寝られるって点ではよかったな、あの建物。あ、汚ぇから病気だけは恐かったが。それくらいだな」
「そうだね……。蛭男が使ってたあの建物って、元々は何に使われてたのかな。そっくりなのが二つあるのも不思議だよね」
さあ、とクレイグはどうでも良さげである。代わりにスライムがうーん、とぷるぷる震えながら(彼はまだクレイグに慣れていない)小さく唸った。
「入口の高さと幅を考えると、人間サイズの生物が使用していたんでしょうけど……」
「んー、私だったら絶対、休憩施設を造らせるけどね。妖精専用のやつ!」
「なんの休憩……そっか、ここに落ちてきた人が建てた可能性はあるよね。奥に進む途中の休憩地。悪くないかもね」
「でしょ?」
「……そんなことがあるか?」
自慢げな妖精に頭の上に乗られたまま、トゥケロは訝しげである。ちなみに妖精が珍しくトゥケロの頭の上なのは、彼は背が高いため、あまりクレイグの顔を視界にいれなくて済むから、らしい。
「いや、落ちてきた人間がオリや、前に見た二人みたいなのだけだったとしたら、とてもじゃないが、こんなもの建てられないだろうと思ってな」
「確かに……あ! 昔一斉に、大量に人が落とされたことがあったんじゃない!?」
であれば、納得がいく点が多い。建築物――ここだけではなく、トゥケロの階層やミオの階層でも見たような建物や石像が、まるで人間が作ったような形をしていたこととか。多くの魔物が、人間という生物について知っていることとか。『岩嫌い』の階層に、魔物とも人ともつかない文字の記された石版があったこととか。人が着るみたいな衣服が存在することとか。
オリはその発見に夢中になった。大勢の人間が暮らしていたのであれば、文化が重なることもある。人間についての知識を、魔物たちが共有していてもおかしくない。
しかし、人間のクレイグ含めた周りの反応はというと、「へー」という相槌すらないほど薄い。オリは内心がっかりした。
「……って話になったんだけど、どう、私の説? アタリ?」
「なにが?」
「だから私の、『昔一斉に、大量に、人間が落とされたことがあった』説について!」
オリが声を荒げても、少年にしては非常に珍しいことに、反応が鈍かった。わざと聞いていないフリをしているようにも見える。いつもの嫌がらせにしては、少し様子が違う気もする。
オリは困った。彼とはなんというか、難しい関係だ。友達な気もするが、敵である気もする。とても気楽なのに、心底油断ならない。とにかく相手の様子がおかしくても、悩みを聞いて、励ますような間柄ではない。
「ん、どうしたの。静かだね」
「そっちの様子がおかしいからでしょ……。私の話、聞いてなかった?」
「聞いてるよ。いつも、君の話は全て」
穏やかなのに、妙に真実味のある声だった。
こいつ本当に暇なんだな、とオリは思った。口には出さなかったが、表情に出ていたのかもしれない。少年が肩を竦めた。
「僕には他に、話し相手なんていないからね。もう忘れた?」
「覚えてるけど。それより、さっきの私の説はどうなの?」
「ん? そうだなー、どうだろうね」
「さっきから誤魔化そうとしてない? あなたにとって、不都合なことでもあるの?」
「まさか。僕には何もないよ。ただ、そうだね、……君が本当に、面白いから」
なにが、と尋ねようとした瞬間、オリの視界が塞がれた。
視界を覆うそれが少年の手のひらだ、というのはすぐに分かった。しかし奇妙な感覚だった。触れられている感触はあるが、冷たくも、熱くもない。体温がオリのそれと同じなのか、不思議と馴染む。振り払うのも忘れるほどに。
「このまま全部、忘れさせてしまおうか」
「なにを……」
神様は、
「可哀想に」
神様はこういう風に、人を哀れむだろうか。
「……可哀想に」
『神のあわれみ』とは、こういうものだろうか。
……違う、気がする。
オリが何かを口にする前に、掌がゆっくりと離れていった。
「あなたは、」
オリは咄嗟に口を開いた。
「なんか、思ってたより、神様っぽくないんだね」
少年は目を丸くした。そしてオリをじっと見たまま、何も言わない。神が人に与えるべき言葉を知っているように、いつも悠々と言葉を返してくる彼にしては珍しい反応だった。
それから彼が頬を緩めていつもどおり美しく微笑んだので、オリは内心ほっとした。そして、人の顔が匂わす神聖さや神々しさとは、もしかしたら微笑みからきているのかとなんとなく思った。
「君には僕がそう見えるんだ? 不思議だね。神でないとすれば……君の目に、『僕』は、どういう風に映ってるんだろう」
「今、目の前にいるとおりに映ってるよ。いつもどおり、いつもと少し違う姿。今日はいつもより少し背が低い気がする。髪が長い気がする。今日も一瞬目を逸らすと、髪の色も目の色も全部忘れそうになる。起きて忘れた夢の内容みたいに。今日の目の色は緑色だっけ? ハズレ? ……とにかく、よく分からない部分を除けば、そんな風に見えてる」
「ふーん」
「それより、私の問いには答えてくれないの?」
「なんだ、誤魔化せたと思ったのに。そうだな、その問いには――知らないほうがいい、とだけ、答えよう」
「なにそれ。ちゃんと答えてよ」
「なぜ聞きたがるんだい? 好奇心に負けた人間の行く末を知らない? 見てはならないタブーを犯した人間がどうなるかは? ……それを知っていてなお手を伸ばすというのなら、君は一度忍耐という言葉の意味を調べた方がいい」
まるで、オリの為だと言うような口ぶりだ。そのあまりにも大袈裟な言い草に、オリは少し戸惑った。まるで、この旅が終わる程の秘密があるかのような。
……こんな話の中に、それほどの秘密が? ただの雑談から始まっただけなのに。そんなことが、ありえるのだろうか?
「次は君が僕の問いに答える番だ。なぜ、わざわざ聞きたがるんだい? 人はなぜ、禁じられたものにこそ手を伸ばしたがるのか」
「それは……なぜって、私はそこまであなたを信用していない」
簡単だとばかりに言い切るオリに、少年は苦笑を浮かべた。
「あなたが私に何かを禁じたり、誤魔化したりしたとして、それが本当に私の為になっているのか分からない。あなたがそう言っても私は信じられない。タブーでもなんでも、私は全てを知ったうえで、自分で判断したい。そして私はあなたの信者じゃないから、そもそも忍耐やら好奇心やら信仰やらを試される筋合いはない」
だからオリの為らしい誤魔化しも、遠回しな言い方も、オリ本人にとってはただ不快で不安なだけなのだ。
少年のことは嫌いではないが、オリには、彼の言葉を全て鵜呑みにすることはできない。――心配、という言葉も含めて。
おまけに、今のオリには仲間がいる。無責任に、リスクを考慮せず『誰か』の言葉を鵜呑みにして従う、という選択肢はない。
「そうだね、……君は僕から笑顔を消すことができ、性別を男と固定して見なすことができ、そしてこの迷宮をここまで自力で遡れる、そんな人間だったね」
よく分からない内容とは裏腹に声音は優しげで、甘やかすように指の背でオリの頬を撫でてくる。なにを、とオリは一瞬眉間に皺を寄せたが、害は無いようなので撫でられるままにしておいた。
とにかく彼が、オリの問いに答える気がないのだけはわかった。
「……そういえば少年は、クレイグには会っていかないの?」
「気になることがあれば、会いに行くこともあるだろうけど。今のところ、その機会は無いね」
オリは曖昧な相づちを打った。草葉の向こう、疲弊していたのかすぐさま眠りに落ちていった自称傭兵の男は、この神様めいた少年のことを知らないのだ。それは幸運なのか不運なのか、オリには判断がつかなかった。




