『辰海』
辰海は高校二年生。
彼は幼いころから、絵に描いたような苛められっ子だった。
体格には恵まれず、運動は不得意。勉強が得意かといわれればそうでもない。
生来引っ込み思案の気があり、友人を作るのも苦手だった。小学校へ入学する以前からそうであり、周りの子たちはまるでそれが自然であるかのように仲の良い子を作っていたが、彼らがどのように友人を作っているのかが、辰海にとっては不思議でしょうがなかった。今でも、友人と呼べるような人間はいない。
結局、秀でたところも無いのだから自分への自信なんて当然つくはずもなく、ついオドオドと弱気な態度をとってしまう。
そのまま外出する機会はずるずると減っていき、その結果見たとおりの、内外共に貧弱な少年が出来あがったわけだ。
イジメがはじまったのは、中学生のころだった。小学校の頃から独りで、同級生からは遠巻きにされて、馬鹿にされてもいたが、このようにハッキリとした嫌がらせはなかった。
もともと学級に馴染んでいなかった辰海であるから、その始まりなんてものは覚えていない。思い出したくもないほど唐突だったような気がする。
――なんでも否定された。努力すればガリ勉と貶され、怠ければクズだと嘲笑された。黒縁の眼鏡をかけているから根暗で、それ以外の眼鏡だと似合ってなくて調子に乗っているらしい。生きているだけで目障り、存在するだけ無意味、ともよく言われた。
そういった風になんでもかんでも重箱の隅をつつくように否定され、辰海は余計身を縮こめるように生活することとなった。
一番辛かったことは単純に、クラスの男子から、暴力が振るわれるようになったことだ。
殴られると、当たり前だがとにかく痛い。見下されながら蹴られたり殴られたりしていると、全人格を否定されているような気持ちになった。
よく心の痛みは体のそれに勝るというが、辰海にとってしてみればどっちもどっちだ。むしろ、身体に振るわれた痛みのほうが、実害ある分不快であったかもしれない。
相手にとっては一瞬で済む「お遊び」のパンチもキックも、その後もちろん、辰海の体に痕になって残る。家族から隠すためにはいちいち気を使わなければならず、それを治療するためには小遣いを削らなければならない。
暗い部屋のなかで薬を塗り、痣や傷を眺めるたびに、忸怩たる思いがこみ上げた。
苦痛は恐怖に、暴力は憎悪の対象になった。
「死んでしまえ」
夜中、自分で自分の傷を治しながら、何度相手をそう呪ったことだろう。
「苦しめ、あいつらの大事な奴ら全員苦しめ。苦しんで死ね。死ね、」
何度相手の不幸を想像したことだろう。
「死んでしまえ……」
何度相手を頭の中で殺したことだろう。
片っ端から呪い、彼らの絶望を想像するのは甘美だった。現実に鬱屈としていた辰海とって、何を表しても許されるそこは楽園だった。いくら思いを巡らせても足りないくらいで、自分が受けたことを百倍千倍にしてもまだ足りなかった。あの糞ッ垂れ共を圧倒して潰して殺して、その瞬間を繰りかえしているうちに、それが現実には出来ていない、出来なかったことだ、ということすら気にならなくなってしまった。
それはそのうち、夢の中に現れた。
夢の中の辰海は、ひどくバラバラだった。ある時は暴力によるイジメにひれ伏し、ある時はそいつらを圧倒的に踏みにじる。
後者の夢しかみなくなってからは、眠ることだけが楽しみで、だけど同時に恐怖でもあった。
夢は案外、自分の思い通りにならないものだ。いつその中がまた暴力で支配されるのか、それは辰海本人にすら、分からないのだから。
この世界に来たとき、元の世界に未練はなかったが、より命の危険が近い分恐ろしくはあった。
神様めいて美しい少年は、地面を這う人間を見下すように笑う。
「『剣』もなく『魔法』もない。君には選択肢なく『盾』しか残されていないが――どうやら君には、ぴったりみたいじゃないか」
嘲笑めいた声に反発する気概もなく、投げ寄越されたそれを辰海は恐る恐る掴む。
頼りないくらいほっそりした造りの輪だった。金属に近いが、石でもあるような、妙な触感をしている。何故かゾッとして顔を上げれば、「使い方くらい見れば分かるだろう?」と彼は囁いた。
「どうとでも生きたらいい。最下層を目指してくれたらありがたいが……君にはそれも期待出来なさそうだからね。だから精々、面白く生き延びてくれたらいいよ。じゃ、またね」
一息に好き勝手なことを言って、気付いたらその少年の姿は消えていた。
なにがなんだか、という感じだったが、『暴力を振るわれなかった』、それだけが辰海にとっては重要である。
彼は右腕にその輪を嵌めた。――『盾』と言っていたが、と思うと、右手の中にぱっと盾が現れた。驚いて手を離すと、がらんと音を立てて落ちる。眺めると、装飾もない素っ気ない鉄色の、丸い盾だった。持ち上げてみると、驚くほど軽い。
どうしよう、嫌だ、あの右腕の輪はどこにいった……、と慌てていると、地面に落ちた盾が一瞬でその輪に変化した。
辰海は恐る恐るその輪をつまみ上げると、また腕に嵌めた。これで暴力に対抗できるのか、と思った。
(いや、できない……)
幾度となく襲いくる暴力に必要なのは盾ではなく、それを打ち砕くまた別の暴力である。
その意志を強めたのは、安寿に攫われたときである。人間の、弱者同士のフリをして近寄ってきたあの女。
「ねえ眼鏡。あの上から目線の糞餓鬼から、あんたは『盾』をもらったんでしょ。どこにあんの?」
黙っていようかとも一瞬思ったが、辰海は全く警戒を解いていたし、ここで誤魔化せるほどの度胸もなかった。
かくかくしかじか説明した。この腕に嵌めた輪が、辰海を守ってくれるのだと。ふーん、と安寿は興味なさげに聞いていた。奪われるということもなかった。
「安寿さんは、……『剣』ですか?」
「そうね。そんなものよ。まあ、使うことはないけどね。あんな、あんな人を惨めにするような嫌味な施し、あたしは絶対――」
安寿の表情が暗くなり、しかし目だけが血走るように見開かれ。
辰海はそれを眺めながら、それでも『剣』を得たという彼女に、羨みの言葉を呟いた。
「いいなあ」
逃げるには遅かった。明らかに不審な気配、暗がりのなか漂う血の臭い。辰海は判断を誤った。
「やあ、異世界の人間――んだよ、男か。まあいい、若いからな。待ってたぜ、俺の食事」
蛭のような身体に、人間の顔をした男だった。嫌らしいにやにや笑いに腰が抜けた、そこで背後から安寿に突き飛ばされた。
自分を襲ったのはまた暴力だった。
鞭でぶたれ眼鏡は飛び、悲鳴をあげて暴れたが、あっけなく台に拘束された。身を守るために『盾』を出した。それも嗤われてぶたれて、いつ手からそれが落ちたのかも覚えていない。「どうでもいい」と氷のような目で自分を見放す安寿の顔が脳裏に焼き付いて消えない。
この世界に来ても暴力で、逃げてもまた捕まり、そしてまたそれは襲ってきた。
やはり自分は暴力に負ける。
そして、やはり必要なのは『盾』ではない。力だ。それを打ち砕く、圧倒的な力――。
(暴力なんてきらいだだいきらいだしねしんでしまえ、しね……)
自分の牢に放置されていた盾を盗むように持って行った男――クレイグに、「立ち上がってみろ」と煽られて、まさか起き上がるほどの気力が辰海にあるはずもなかった。
しかし結果として、彼は身を起こし――のろのろとした動作ではあるが、確かに立ち上がった。壁に凭れ掛かるようにしながら、足を引くように通路を進んだ。ひどく気分が悪かった。
明かりから逃げる虫のように、奥へ奥へ、蛭男のレストランに向けて進んだのは何故だったのだろう。あの忌まわしい場所に。
この暴力の行く末を見たかったのかもしれないし、自暴自棄になっていたのかもしれない。分からないが、結果として辰海は進み、そして、
それを見た。
……辰海はレストランの入口で走る誰かに突き飛ばされた。安寿だった。よろける辰海には目もくれず走り去って行く。
辰海も安寿には目もくれなかった。彼はただ魅入られたようにその光景を見つめていた。
「私の勝ちだっ!!!」
オリが吠えた。
辰海では目で負えぬほどの勢いで、頭上から鈍器を叩きつけた。嫌味に辰海を見下ろし嬲った、あののっぺりした男の顔、そして頭が叩き潰されて悲鳴もなく倒れていく。スローモーションのように見えた、その一コマ一コマが脳裏に焼き付いて唖然とした。オリが腕を振ると武器についた血や汚れが飛んだ。
よくある制服のプリーツスカートの下、少女の細足が、蛭男の軟い体を踏み付けた。
彼女が冷ややかな目を落ち着かせるように瞼を落とす、そしてほうと溜息を吐く、その仕草の音一つ一つさえ聞こえる気がする。やがて彼女が顔をあげる。目が合う直前、辰海は弾かれたように逃げ出していた。
轟々と頭の中で何かが沸くように流れるのを聞く。心臓が早鐘を打っている。畏れに目の前が瞬くようだ。あまりにも煩くて何も考えられない。
ただ思い浮かぶのは最後の光景。人の身で暴力を成し勝利した、あのオリの姿であった。




