ミオ・シュリンカ
泉からはなれたオリは、トラップに使えそうなものや、取り逃がしていたかもしれない道具などを確保するために、爆走してきた道をとぼとぼと歩いていた。
たまに魔物がでたが、オリが蹴飛ばしたり殴りつけたりしたせいだろう、ダメージを負っていたため楽々といなせた。
そのため油断していたのだ。
また曲がり角にさしかかった瞬間、ぬっと顔を出してきた巨大蛾と、最悪なことに鉢合わせしてしまった。グロテスクな色合いの羽、不自然にふくらんだ触覚、びっちりと集まった複眼。
「ひぃっ!」
そこにいくつもの自分らしい影が映っているのを確認した途端、オリは鳥肌のたった腕を咄嗟に振りぬいた。武器は見事蛾を叩きのめしたのだが、バランスを崩したオリは側頭部をそのまま迷宮の壁に打ち付けることとなった。
「だあっ!?」
痛い。絶叫するほどではないが、悲しくなる程度には痛かった。
――ぜったい気持ち悪がられた蛾の呪いだ。
血は出ていないようだが、たんこぶが出来たらどうしよう。ゆるい涙腺に涙が浮かぶ。しょんぼりと頭部をさすっていると、
「大丈夫ですか、にゃー?」
自分以外の誰かの声に、びくりと肩がはねた。慌てて空いた手で剣を引っ掴んで、その顔面に突きつけると、ぱちぱち、つり目がちな大きな瞳が瞬いた。
丸っこい剣の先には、かわいらしい女の子がいた。子、といっても、その背はオリよりも高い。セミロングの髪は下のほうで内向きにくるりとカールしている。
その上には、ぴんと立った茶色い獣の耳が生えていた。
そしてその娘は剣を突きつけられているにも関わらず、「おはようございますにゃー」と、のんびりにこにこ微笑んでいる。
動転したオリもまた目をぱちぱちさせてから叫んだ。
「萌えキャラだ!!」
「ざんねん、小さな猫又ですにゃー」
「それ犬耳だぜ」
全体にふっさりとした毛が生えており、猫のものよりも少し大きい。もしかしたら狼かもしれないが、まあ間違いなく猫ではない。
少女はテヘッと笑って、ごまかすように小首を傾げた。あざとい。
「あちゃーばれましたわん」
「舐めてんのか?」
普通にちょっとイラッとした。
よく分からん嘘吐く上に、語尾もキャラ作りらしい。明らかに不審度が増したので、すぐ立てるように体勢を変えた。脳天を狙う準備はいつでもできている。
「やーん。やめてください、ご主人様」
「ごっ……しゅう!?」
なんだその呼び方。何がどうなってそうなった。
驚き、というよりも衝撃のあまりぱくぱく口を開閉させていると、こちらの気も知らず自称猫又らしい少女は嬉しげに微笑んでみせた。
「ゴッシュ? いい名前ですわん。ありがたく承ります、ご主人様!」
まさにオーマイゴッシュってか。うるさいわ。
「わたしやばい。絶対やんでる」
「ヤバイ様? はじめましてわん、ヤバイ様!」
「違うよ! あー、えーっと。私は、オリです」
「オリ様? オリ様ですね。あのときは助けてくださり、誠にありがとうございましたわん!」
ぺこりとそのまま頭を下げられて、真っ当な感謝のし方に、なんとなく冷静にさせられる。
とりあえず尖っていないためあまり迫力のない剣先をおろし、オリは再び地面に腰をおろした。自称猫又の犬人間にも座るよう促すと、素直に応じた。
そうして改めて向き合うと、機嫌よさげにニコッと微笑みかけられる。あどけない外見の割に、オリよりも頭一つ分くらい背が高いのがすこし奇妙な感覚だった。
「……とりあえず、その、事情を話してくれるかな」
「はいっ」
自称猫又がいうにはこうだ。
好奇心から普段いるところから出てみて(ここで正直オリはまたか、と思ったが黙って話を聞きつづけた)、ちょっと最上層まで上がってみたのだが、そこには言葉も通じない魔物がほとんどだった。
休めず疲れ果てていたところ、とある魔物に襲われた。例の、オリも遭遇した蛾である。
不意打ちを食らって痺れてしまい、倒したのはいいが、今度は別の魔物に襲われた。
そこを、爆走してきたオリが蹴っ飛ばして倒して、自分を助けてくれた。
しかもなんの見返りも求めず、そのまま颯爽と去っていった――。
「私たちの一族は、恩を忘れませんわん! オリ様に御恩を返すべく、これからは不肖このゴッシュ、オリ様の僕として尽くしていきたいと思いますわん!」
キラキラとその大きな目を輝かせ、猫又はその熱弁をしめくくった。
害意も感じられないし、どうやらオリに、本当に感謝しているらしい。
こうした純粋な気持ちは嬉しいし、まあ『僕』というのはともかくとしても、協力を申し出てくれるのは大層ありがたい。が。
「あの、それ、誤解だよ」
「ゴカイ……?」
とりあえずオリがここにいる事情を軽く説明してから、簡潔に話した。
助けたつもりはない。そのときあなたの存在には気付いていなかった。ただ全力で走っていた途中、魔物が邪魔だったので蹴飛ばしただけ。何も言わず去ったのもその延長で、深い考えがあったわけではない。なので、あなたがそこまで義理立てする理由はない、云々。
オリ本人も意味がよく分からないその説明を、自称猫又はやけに神妙に聞き入っていた。
そして説明が終わってから、たっぷり黙考したあと、
「やっぱり私、オリ様についていきますわん!」
と、キリリと顔をひきしめ言い切った。
「だってオリ様、知らんぷりして私をこき使えばよかったのに、そうしないで、説明してくれましたわん! 独りで怖いはずなのに、すごいですわん! やっぱりいい人です、わん!」
そして続けて、
「ぜったい、ぜったい、ついていきますわん!!」
一際大きな声でそう宣言してきた。
「……」
呆気にとられたオリが黙っていると、断られると思ったのだろう。ダメでもこっそりついてくだの、荷物持ちでもいいからだの、懸命に並べたてはじめた。
それから逆立ちしたりバク宙を決めたり、全身で自分の身体能力をアピールしだした。全身の筋肉をしなやかに使った技はどれも素晴らしかったが、オリにとってはそれどころではなかった。
なんて言ったらいいのか分からない――この世界で、ここまで純粋な自分への善意に触れたのは、はじめてだったから。ただ明るい、そんな笑顔が本当に衝撃的で。ただ嬉しくて。
オリは胸の温かさに痺れるように、しばらく呆然と、その様子を眺めていた。
ただその後、骨が折れるだろうヨガもビックリなポーズまで取ろうとしたので、さすがにそれは止めた。どうやら自分でも不可能だと自覚していたらしい。なぜ決行しようとした。
オリは、助かったと言わんばかりの顔をしているその娘のそばにしゃがみ、
「ありがとう」
と頭を下げた。
信用していいのかは分からない。それでも一緒に行きたいと思った。
それはただ嬉しかったからでもあるし、単純に死にたくなかったからでもある。この前後にのびる迷宮で二人連れならば、生存できる確率はぐんと上がることだろう。
それに、この善意が嘘であっても、ただ戦いが一つ増えるだけだ。
「これからよろしくね」
そして手を伸ばすと、ぱああと顔を輝かせて「はい!」と笑い、オリの手を両手で握りしめた。厚めの手袋をしているため人間の手のようだが、体温が高いのかオリよりずっとあたたかい。
自称猫又はぽんと自分の胸をたたいて、出来うる限りの凛々しい顔をつくってみせた。
「ゴッシュにお任せくださいわん!」
「……その名前は変えよっか」
元があんまり適当すぎるし、この子にはちょっと似合わない。
「オリ様がそういうのなら、分かりました。お任せしまーす、わん!」
「うん、わかった。……あれ? 普段つかってる名前はなんていうの?」
「ミオ・シュリンカ、名前はミオですわん!」
「じゃあそれでいいじゃん……」
なんでわざわざ付けさせようとするのか分からない。
「えっ」と声にならない声をあげて衝撃をうけているミオはさて置き、オリは立ち上がって尻のあたりを軽くはらった。
結構時間食っちゃったな、と思いながら振りかえると、ミオも慌てて従うように立ちあがった。
「な、なまえ、つけてもらえないんですか、わん」
何がそこまでショックだったのかは知らないが、ずいぶんと残念そうな表情だ。別につけてもいいのだが、言葉が普通に通じる、自分より背の高い相手に名前を付けてやるということに少し違和感がある。
しばらくしてまだ欲しがるようだったら、何か考えることにしよう。
「あ、あんまりわんわん言わなくていいよ」
「それは助かります!」
猫又のフリをしていたときから思っていたのだが、この語尾はやはりキャラ作りだったらしい。語尾が不自然なまでにクドイから、おかしいと思ったのだ。
ミオは、数秒前までのショックも忘れてしまったようににこにこしてオリを見ている。
こうも単純で扱いやすい人も珍しい。いや、人ではないが。
「そういえば、なんではじめに猫又って名乗ったの?」
「そっちのほうがメジャーだからです! 説明しなくても分かってくれるから、とっても便利です、わん!」
(あ、わんって言った)
これはツッコムべきなのかどうなのか。ちらりとミオの様子をうかがうが素だったらしく、本人は気にかけていないようだ。たまに出る程度には口癖らしい。これでよく猫又を名乗ろうと思ったものだ。
(魔物として猫又のほうが有名ってこと? それとも、猫のほうが犬より身近な存在ってこと?)
メジャーだマイナーだというが、もともとこの世界の出身でないオリには全くピンとこない。そのため、ミオのこの発言が嘘かどうかも判断がつかない。
常識が分からないというのは思っていたより障害になりそうだ。
ここらへんもう少しあの少年に話を聞いておくべきだったかな、と思う。
「まあとにかく、猫って言い通すには、ちょっと……でもないか。かなり無理あるから、気をつけてね」
「耳も、尻尾も同じなのに……わん」
しゅんとする様はかわいいが、幸先が不安になってきた。耳も尻尾も同じように生えてればいいというものじゃない。
この子、いろいろとズレ過ぎているんじゃなかろうか。目や鼻や口の数がオリと同じだから、あの魔物は人間ですかとか言ってきそうだ。
うまくやっていけるかなぁ、と見えない未来に不安を感じつつ、オリははじめての仲間を歓迎するのだった。
「オリ様。一緒にがんばりましょう、わん!」
オリはそのセリフに、隙を見られないよう冷静な顔で一つ頷いたが、口元のほころびだけは抑えることができなかった。