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監獄迷宮  作者: ばち公
それはいつかの、
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至福の死

 オリとスライムが埋もれたのを見届けて、蜘蛛女はまた天使の肉に向き合った。二人を先に始末したほうがよいとは分かっていたが、体が自然と馳走のほうへ向きを変える。

 早く食えと、脳どころでなくあらゆる神経が逆立ち命じる。口内に唾液が溢れる。涎が流れるのも構わず、天使の肉にかぶりつく。他の生物の肉とはまた異なる筋張った厚みのある触感、あふれ出る液体に、咽喉が笑う。今までのものとはまた異なる味、新たな美味。達成感が蜘蛛女の体を満たす。あまりの歓喜に視界がぶれ心身が震える。余所ごとに目をやるくらいなら、一秒でも長く至福を味わっていたい。肉を裂き、中のすかすかした細い骨をかじり、蜘蛛女は心の命じるがままに笑う。

 彼女は今この迷宮内で、最も幸せな存在であった。



 そんな彼女をしばらく前から観察する存在があった。トゥケロとリューリンである。

 どちらも、ここまで怪しい存在を放っておくほど馬鹿ではなかった。別行動の素振りをしてみせてすぐ、揃って蜘蛛女を追った。

 追いついたときには、オリとスライムが土の中からぽこっと飛び出して堂々格好をつけている最中であった。


「ちょっとどいてデカブツ、よく見えな……ぶはっダッセーッ!!」


 ひっくり返ってまた土の中に逆戻りする二人。その光景を指さし、どっと大笑いする妖精。トゥケロはため息を飲み込んだ。


「なんで付いてきたんだお前……」

「あんたがオリを殺しちゃわないようにね!」

「はあ?」


 トゥケロは珍しくぽかんとした。


「……あ、いや、そうか。確かにそう思われてもおかしくはないが」

「あんた達の仲間が、何度もオリを殺しに来てるの、さすがにおかしくない? ねえ、どーなってんのよ」

「うーん……」


 後ろ頭を掻き、トゥケロは言葉を濁す。


「ま、あんたが本気でオリを殺すとは思ってないけど? 折角ここまで生き延びたんだから、変なことしないでよねっ」

「分かってるさ。俺はもうオリの仲間なんだから」


 言いながら、トゥケロは手製の弓を構えた。

 オリに見せられないのが残念だ。後で教えてやらねばならない。動き回りたくない敵陣ほど、遠距離攻撃が役に立つ。特にああいった、図体のでかい相手には。

 トゥケロは矢を射った。手本のような一撃だった。

 背中に深々と突き刺さった矢は、蜘蛛女の柔らかな肉体にとっては明らかに致命傷であった。誰の目にも明らかなほどだ。それでも蜘蛛女は倒れない。トゥケロは眉も寄せず再度矢を放つ。もう一度、もう一度――。

 トゥケロに射られても射られても、蜘蛛女は天使を貪っていた。いくらかは腹まで貫通していたのに、それでも食事を続けていた。この世のあらゆる幸福を享受しきっているかのような恍惚とした笑みで、彼女はぞろぞろと獲物の体液をすすり、皮を剥ぎ、肉を飲んだ。

 やがてその豊かな腹を倍ほどに膨らませたところで、彼女は餌につっぷすように倒れ込んだ。針山のような背中の矢が天を向く。

 彼女の死に顔は、母の腕のなかで眠る赤子よりも明るく、穏やかで、安らかであった。



 その後すぐ自力で土から這い出してきたオリの第一声は、「私の番は?」であった。

 そして足元で転がっている蜘蛛女の状態から全てを察した。肉が抉れて傷つき、体液と悪臭に塗れいる。

(えぐい)

 トゥケロが矢を無理やり引っこ抜いて回収したせいで、こうも無残な姿になったらしい。どっちが背中でどっちが腹かすらも怪しい状態だ。


「……天使の殺し方、聞きたかったなあ。まあ、ほんとにそんなもの知ってたかも怪しいけどね」

「知ってたら、私たちに協力なんて依頼しないでしょ。ってゆーか」

「なに?」

「そんなの聞く必要ある?」

「ないか」


 オリは食い散らかされた天使の傍ら、それと普通に殺し合ったことを思い出した。ミオを殺し、オリを絶望の崖から突き落とした、為す術もない災害――にさえ見えていたものが、この様である。

 打ち合えるし、勝てるし、殺せる。敵ではない、と言うわけではないが。

 やりようはある、ということだ。


(それこそ、この蜘蛛女みたいに)


 オリは複雑な顔で蜘蛛女の死に顔を見やる。彼女は心底幸せそうに亡くなっていた。新しい美味、それだけのために、たった独りでここまでやってのけた、おかしな女だ。

 しかしこの迷宮内で、これ程の幸福に至れる者が他にいるだろうか?

 トゥケロに射たれても射たれても、彼女は天使を貪り続けていたという。異常だ。天使の肉には、麻薬みたいな成分でも混ざっているのだろうか。それとも単に、死んでもいいくらいに幸せだったというだけなのか。


「オリ、そろそろ行くぞ」

「あ、うん」


 慌てて仲間の後を追おうとして、何かを蹴った。下を見れば、地面にルビーのピアスが落ちていた。先ほどオリが転んでしまった、直接の原因である。

 彼女はそれを拾い、眺め、少し考えてから、ほとんど空のリュックサックに手をつっこむ。さぐると、対になったルビーのピアスがそこにはあった。『草』の長がくれた、『メイヤ』という少女のピアスである。

 これを投げ付けてきたのは蜘蛛女だろう、だとしたらなぜ彼女はこれを持っていたのか。彼女がメイヤを殺した?

 ……。

 考えたが、結論は出ない。オリは諦めて、その対になったピアスをまたリュックサックにしまっておいた。


「もう思い残すことはないか?」


 階層を移動する直前。

 トゥケロの問いかけに、オリは少し思いを巡らせる。

 やがて、


「ううん。大丈夫」


 きっぱりと言い切って、彼女らはその階層を後にした。




 蛭男は、蜘蛛女の潰れた腹から漂う悪臭に顔をしかめる。見れば、せっかく胃に収めたものまではみ出ている。

 蜘蛛女の死に顔を上からのぞきこむ。彼女は至福の表情をしていた。指でも組んでいれば神に祈りをささげているかのように穏やかな顔であった。


「ご愁傷様」


 さっさとその場を後にする。

 長い付き合いであったが、そこまでの感慨もない。二人がうまく共存できたのは、主食が別であったからというそれだけに過ぎない。蛭男には、天使なんてゲテモノに傾倒する蜘蛛女は限りなく愚かな生物に思えた。いつかそのせいで死ぬだろうとも思っていた。

 しかし。

 あの至福の死に顔。

 あの生死すらも超えた歓喜。

 彼女が間際に出会った、新たな味はどれほどのものであったのか。まさか天使を喰いたいなんて思うはずもないが、新しい美食というものは、確かに彼の関心をそそった。


「しっかし、何がいいかね」


 蛭の自分じゃ消化器官的にも丸かじりは無理だ。できるなら手足として使えるような協力者もほしい。

 いやそもそも、何を狙うかだ。この狭苦しい迷宮で、いまさら新しい食材なんて……。


「あ」


 不用心にすたすたと歩く、薄っぺらな身体が目についた。棒きれ一本を片手に、草木を払いながら歩く、人間の女。

 彼女は『安寿』という名であるのだが、彼はまだ彼女の名前も知らない。

 蛭男は笑みを深めた。

この章はこれにておしまいです。

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