妖精
迷宮は一本道だった。
もちろんなんの迷いようもないので、オリはとにかく進んでいく。留まってもどうしようもないことが明らかだったからだ。
たまに何もないところにビクつきながらも、その足取りはわりと早い。
前も怖いが後ろも怖い、留まるのも怖いのだから当然だった。
途中、背後が急に恐ろしくなって思わず小走りになった。結局キリがなかったので疲れたところで足を止めて、壁に背をはりつけて休憩した。
そんな自分が情けなくてしかたがない。
オバケに怯えている場合でもないだろうに。
呼吸が整ってきたのでまた進むことにした。
すぐそこにあった曲がり道を曲がると、そこには二足歩行に爬虫類のような尾をもった獣がたっていた。
「……」
ぎょろりとした目と、目があう。
現実を飲みこむまでに数秒。牙をむき出しにして威嚇され、それからやっと悲鳴をあげた。
「わあああああ!!」
そうしてオリが混乱している間に、体は勝手に一歩奥へと踏み込んでいた。いつのまにか上げていた右腕を、素早く振りぬく。ガンッと腕に衝撃と痺れが走るが、体は構わず追撃をかける。ふらつく敵の頭に、今度は両手で、渾身の力をこめてもう一発。
鈍い音をたてて、頭蓋骨が砕けたのだろうか、先ほどよりも深く脳天を穿った攻撃に、獣はぱったりと地に伏せて、そしてそれきり動かなかった。
これが少年の言っていた武器の効力だろうか。
そのおかげでオリは生きており、今、疲れのため肩で息をしている。
「……お、おわった」
あっさりと死んでしまった。
いやこうも思いきり頭を殴打されたら、生き物ならそりゃ死ぬだろうが。いや、でも。
伸びてしまった獣に、全身がぞわりと粟立つ。思わず手から落とした武器が地面にぶつかり音をたてるが、それを拾う前にスカートで手をぬぐった。
強く擦りつけるが、何度やっても感触が消えない。消えない。残っている。
「……」
この死体の向こうに進んでいきたくない。
迷宮の奥、底知れぬ闇に足がすくむ。
何が潜んでいる。何が待ち構えている。怖い。死にたくない。怖い。絶対に死にたくない。この無残で哀れな死体が、いつ私になるのかも分からないのだ。
このまま回れ右してダッシュで逃げたい。でも、どこへだ。
欲求の赴くまま無茶苦茶に叫んで、この澱みを全て吐きだしてしまいたい。が、恐怖に声もでない。口はぱくぱくと開閉するだけで、酸素一つ吸えている気がしない役立たずっぷりを発揮している。
ああダメだダメだと唇を噛みしめる。意を決して深く、胸いっぱいに息をすいこんだ。
「わああああー……」
なんて、自分にしか聞こえない声だ。
絶叫したらスッキリするかもしれない。でもそうしたら、自分がここにいる証明になってしまう。理性が邪魔をする。いっそ気を違えてしまいたい……。
声が尻すぼみに消えていくのにつれて、がくがく体が震えてくるのでその場に屈みこんだ。
生まれたての小鹿でももう少ししっかりしているだろうと思えるほど、足に力が入らない。腰が抜けたとでもいうのだろうか。
「ご、ごめんなさい」
殺したのではない、勝ったのだ。オリは戦闘に勝利しただけだ。
思いこもうとすればするほど、歪なモラルが喉の奥からせり上がってきて謝罪の言葉を吐きだす羽目になる。
死んだ獣の目は見れず、オリは俯いてローファーのつま先を眺めたまま、しばらくその場にうずくまっていた。
たっぷり時間を取って震えがおさまると、オリは立ち上がって剣を拾いあげた。いつまでも悲しみの世界に浸っているわけにはいかない。
だってそうするには、ここはあまりにも恐ろしすぎる。
それから二度魔物を殺した。
一匹は先ほどと同じ獣で、こっち向かって唸り声をあげて威嚇してきた。ここは通さないぞといわんばかりに爪を構えている。
それに怯えたオリが一歩下がった瞬間襲いかかってきた。振り下ろされた爪を防ぐと、カツンと硬いもののぶつかりあう音がした。こんなもので切られたら、ひとたまりもないだろう。
そしてそれを弾くとすぐ、体は攻勢を取っていた。
一発目はひょいと避けられたものの、次いで放った追撃で横っ面をふっとばし、もう一発を側頭部に叩きつけることで倒すことができた。
その後すぐに現れたのは大きな蛾だった。
オリの顔ほどだろうか、ばっさばっさと分厚い羽を羽ばたかせている様には怖気がはしった。特別虫嫌いというわけではないが、やっぱり見ていていい気分のするものではない。
見た瞬間「気持ちわるぅ!」と叫んでしまったが、こちらに向かってくる相手に対して、体はすでに動いていて、気づけばそのグロテスクなカラーの羽をぶん殴っていた。
するとバランスを崩したので、また横に武器をふるう。
壁に叩きつけられた蛾はそのまま動かなくなった。
「わああああああ!!」
オリはがむしゃらに叫びながら走っていた。
意を決してからたったの数十分。まだ三体しか倒して、というより撲殺していないが、もう無理だと思った。
なにこれホント怖い。殺すとか怖い。襲いかかってくるとか怖い。倒したら倒したで死体はエグイしグロイし怖い。二度目に倒した獣なんて、壁にぶつかったときになんか頭から変な汁飛ばしてた。ヤバい。これヤバい。無理。私の限界超えてる。ヤバい。無理。許してくれ!!
途中いた魔物の顔面を全力で蹴っ飛ばし、それからまたひたすら駆けた。
なんど角を曲がってなんど魔物をブッ飛ばしたかは知らない。時に顎を蹴飛ばし、時に剣で薙ぎ払った。追い打ちをかけたりはせず、ただ何も考えずに走り続けた。
その途中にはなんかいたりあったりした気もするが、完全に無視して爆走した。
アホみたく走り続けても迷宮は途切れない。当たり前だ。
徐々に速度を落としていき、軽いランニング程度のペースになってから足を止めた。特別意識したわけではないのだが、自然とこのようにしていた。これもこのおかしな剣の効果だろうか。
それでもさすがに疲れていた。どれぐらい進んだのだろうと考えながら、膝に手をついて深呼吸をくりかえす。
汗で頬や首回りがべたつく。普段運動不足なせいだろう、腕や足がすこし痛んだ。
深呼吸をくりかえすオリのすぐ側には、不思議な泉があった。
ここは迷宮の角。いつもあるはずの松明はなく、人工的に造られたような泉がつき出している。
この素材はなんだろう。コンクリート、煉瓦、陶磁器、ガラス。どれも違うような気がする。手触りはつるりと滑らかで、色は白をとかしたような、柔らかなブルー。
その中で水がこぽこぽと静かに湧き出ている様は、見ていて癒される。
――ただ不思議と、この空間からは浮いているように見えた。
飲むのを躊躇うのはそのためだ。
我慢できないほど咽喉が渇いているわけではないが、このようなものが今後いつあらわれるか分からない。汗もかいたし、飲んでおくべきだと思う。
「……」
さっと指をつっこんでみた。すぐ引く。異常なし。再び水に浸す。数分経過。異常なし。いやちょっとふやけた気がする。
試しに、その指についた水を舐めてみた。舌がピリピリするといったことはない。しばらくそんなことを繰りかえしたが、異常なし。
大丈夫なんじゃないだろうか、という方向に意思が傾いていく。
そのとき一瞬、黄泉の国で料理されたものを口にしてはいけない、ということを思い出した。
その国の住人ということにされ、帰れなくなってしまう。日本神話などでみられる、有名な話だ。
しかしここは黄泉の国などではない。
というか、イメージ的にはあの世や冥府というよりも、ゲーム内のダンジョンに近い。そういえば、監獄だか地下だか迷宮だかの英訳こそがダンジョンではなかっただろうか。まさにその通りだ。
「まあいいや飲もう」
疲れたし咽喉渇いたし。
少し怯えすぎだったかもしれない。だいたい黄泉竈食いで口にしたら駄目だというなら、もうぺろっと舐めていた時点でアウトだろうに。なにをごちゃごちゃ恐れていたのだろうか。それよりもまず、いくら清浄に見えても生水なのだから、そっちを気にするべきだった。
ひんやりと冷たい水を手ですくい、一口飲む。ほてった咽喉を、水がするりと流れていく。
一気に飲みたいところだがそこは堪えて、そうして少しずつ、たまに時間を置きながら咽喉を潤していった。
周りが静かなので、少し休んでいくことにした。
剣を抱いて座り込み、泉にもたれかかる。背中や腰が痛くて、心地がいいとは決していえない体勢だが、これなら多少反応が遅れても大丈夫だろう。
そして気持ちを落ち着けるため、目をとじた。
どうにも精神がささくれだっている気がするので、あまりものを考えないようにする。
……しかしこうやって眠ってはいけない、眠ってはいけない、と他所に集中していると、ものすごく眠たくなるのはなぜだろう。そしてつい、体を横に倒してしまうのはなぜだろう。
頬をつけると、ひんやりして気持ちいい。
それにしてもここは不思議だ。出来てからどれくらい経つのか知らないが、やけに汚れていない。むしろ、なんとなく清潔感すら感じられる。
埃は溜まっていないし、蜘蛛の巣もはってない。それどころか、地面には砂粒一つ落ちていない。隅にも汚れは見つからない。
(ふしぎ……)
そんなことをぼんやり考えている内に、本当に寝入ってしまったが、あれだけ眠かったらしかたない。いざという時のことを考えて、こうして安全なときに寝ておくべきなのだ。
など自分に言い訳しておいた。
まったく人間、どこにいようが、甘ったれた行動に変化はないものらしい。
――また夢をみた。
立派な鎧をきた将軍が部下の兵たちと、戦場を見渡している。
大地を覆い隠すほどの死体に、その所々から見える折れた旗は敵のものだ。その全てが赤いのは夕日のせいなのか彼らの血のせいなのか、オリには見分けがつかない。
将軍が朗々と声を発する。大人の女性の声で、少し嗄れていた。
「殺戮ではない、勝利だ」
「蹂躙ではない、勝利だ」
「これはただの一勝利に過ぎない。例え今現在この場がどうであろうとも、国に帰ればただ一つ、勝ち戦のカウントが増えるだけだ。それを諸君が誇るか悔しがるか、それとも儚むは知らんがな」
「では諸君、帰るぞ」
堂々とマントを翻すその人物は、オリの顔をしていた。ちらりと窺えた、俯きそれに従う兵士の顔も。
そして彼女らが最後に平然と踏みつぶして行ったみすぼらしい死体も、オリの顔をしていた。
「――私病んでるのかな」
目を覚ましてしてすぐのセリフだった。
血を全身にあびた、精神を摩耗し切ったような表情の女将軍。死んだ魚のような濁った目で、人形のように付き従う兵士。下半身のない、肉がぐずぐずになるまで踏まれていった死体……。
夢ぐらいいいもんがみたい。
溜息をつき、寝返りを打ちかけたところで――気配を感じ、動きを止めた。
体を強ばらせてぐるりと目を動かすが何もいない。息を殺して耳を澄ますが何も聞こえない。
――気のせいか。
引き寄せた剣を抱く力をゆるめると、そのタイミングを計ったようにクスクスと空気ににじむような笑い声がきこえた。
「だっ、誰!?」
飛び上がり、声を張りあげるが返答はなく、しんと静まりかえっている。警戒して辺りを見回すが何もなく、ただ眠る前と同じような景色が広がっていた。
神経過敏になっていて、幻聴でもきいたのだろうか。まさかそんなわけ無いだろう――腑に落ちないまま、構えていた石剣をおろした。その瞬間だった。
「バアッ!」
「ひっ……!」
眼前に飛び出してきた物体を、オリは一も二もなく引っぱたいた。が、その手は宙を切る。
剣先をいつもより高めに構えて睨みすえれば、そこには、人形がクスクス笑いながら飛んでいた。
そう、人形だろうと思った。幼い女の子が喜んで遊ぶ、あの有名な。そう見ると大きさなんかもよく似ている。
ただ、その頬は人工では表せられないような赤みを帯びており、瞳はきらきらと好奇心に輝いてオリを見つめている。
そして彼女の背負う、なめらかな曲線を描いた羽は、虹色のきらめきに縁取られている。
そう、おとぎ話にでてくる妖精のような。
「キャハハハ! あぶなーいっ」
「……」
甲高く、なんの遠慮もなく放たれる声は、率直に言うとかなり耳障りだった。頭痛のときに耳元で騒がれなどしたら、思わず虫かごに閉じ込めてしまうだろう。
オリのしかめっ面を見て、妖精はけらけらと、明け透けなまでに笑っている。
「ごめんね、ごめんなさい。アタシは見てのとおり、キュートでラブリーな妖精よ。あなたは人間? それとも、変な魔物?」
「人間、だけど……」
「ふーん」
妖精は空中で頬杖をつきながら、オリをじろじろと値踏みするように眺めた。こちらも妙な対抗意識から彼女を観察してみる。
彼女と称したが、本当に性別があるのかは分からない。声は人間離れして甲高く、天使のようにくるくるとカールした黒髪は短く、おまけに体に凹凸が無いなのではっきりしない。喋り方はまごうかた無く女性的だが。
しばらく見つめていると、妖精はその小さな口をにんまりとつりあげた。
「うーん。ちょっと田舎っぽいけど、まあ合格! ねぇねぇ、話しがあるんだけどすこーしいい?」
「なに?」
とりあえず、ナチュラルに失敬な奴だった。
「アタシね、この水場に住んでるの。っていうか、勝手に住み着いちゃったって感じだけど。あ、水のなかで暮らしてるってワケじゃないから安心してね」
妖精はペラペラとよくしゃべった。
こうして普通に話している分には、不快でしかなかった甲高い声も気にならなかった。
先ほどは、わざとこちらを煽っていたのだろう。いや、からかっていたのかもしれない。
「ホントにたくさん人間がここを行き来していったのよ。まさか君みたいな人間が来るなんて思ってなかったナー」
「……」
クスクスと笑う。
今まで何人の人間が、ここを無事に通りぬけることができたのだろう。この妖精は何人見送ったのだろう。この表情から、誰一人彼らを哀れまなかったことだけは確かだ。
姿かたちは似ていて同じ言語を操るといっても、やはり人間とはまったく異なるらしい。
「私みたいって?」
「まともそうで、生き延びてて、鉄を持ってない子!」
「――べつに普通じゃない?」
「普通がこんなとこまで来るわけなでしょ。よく来るのは、なんていうか……強面どころじゃないぞって感じ? ガッツリ武装してたり、明らかに殺す気満々ですって雰囲気だったり、オッサンだったり。そんな人間がたまーに来るの」
そういえば、公開処刑か監獄迷宮か、だったか。
オリのようなひ弱な人間は、あの滝壺や初めの魔物で淘汰されてしまうのだろう。残るは屈強な、一般人にとっては加害者となりうるような人間ばかり。
とにかくこの先に、協力を仰ぎたくなるタイプは少ないらしい。予想はしていたが少し辛い。
「あ、ガッカリした? ごめんね、ごめんなさい。別に傷つけたいわけじゃなかったのよ」
そしてまたクスクス笑う。
「いや気にしてないよ」とオリは簡潔に答えながら、こうも口先だけの謝罪も珍しいなと思った。
社交辞令や礼儀といった、人間についての一般常識はあるらしい。
「あのね、アタシ、オリにお願いがあるの。だからこうして声をかけたのよ。だって襲いかかってこなさそうな人間て、珍しかったんだもの。たまにとってもまともそうな人間も通るんだけどね、鉄持ってたし、すっごく緊張感ビシビシで寄り辛かったっていうか。それはいいんだけど、ねぇ、オリ。アタシと、」
契約してくれない?
オリの眼前に、妖精の顔がせまる。瞬き一つせず、オリの目をじっと覗きこんでくる。その顔の向こうにある美しい羽は羽ばたかずに、それでもその肢体は当然のように、優雅に宙に浮いている。不思議な生き物だ。
オリは世界を閉ざすようにしばし瞼を落としてから、すっと彼女から視線を逸らした。
「それは無理だよ」
「エーッ!? なんで! なんでぇ!? ケチ! 人間のケチィー!!」
「だって私もう契約してるし」
あの少年と、死にたくない勢いに乗って契約してしまっている。
妖精はその頬を子どものように膨らませながら、オリの服の袖をぶんぶん振り回して駄々をこねだした。一張羅が伸びるから止めてほしい。
「いーじゃないもう一個ぐらい!」
「あっ、別にいいんだ……。でもやめとくよ。そんなにホイホイしてたら、最後にはがんじがらめになっちゃいそうだし」
というか、契約自体がなんなのかよく分からないから止めておきたい。
まるで当然のように申し出されているから、ここでは常識的なことなのだろう。
「なにかお願いがあるなら普通に聞くよ。それでいい?」
まあ内容によるけど。
付け足したところで、妖精がまた顔を覗きこんできていることに気付いた。オリが訝しげな顔をしているのにも構わず、ほんの少し首を傾げていた。
「……なに?」
「ううん、なんでもない。じゃ、お言葉にあまえちゃおうかなぁ」
にっこり、甘えた顔で愛嬌たっぷりに笑うと、すいと飛んで泉の縁へと腰かけた。その小さな手のひらを水面へとつける。広がるかと思われた水紋はなく、ただその水は何も買ったかのように、静かにその手を受けいれた。
「私ね、今はこの泉にいるけど別にネイアードってわけじゃないの。もとはもっと下層からきたのよ。オークの枝でつくった杖を使って、誤魔化しながらのぼってきたの」
まずネイアードってなんだろう。
「ネイアードは水場に住む妖精。見たことないけれど、正直者が好きらしいわ。オークは聖なる樹木。その杖は私の一族の宝、魔法の杖なの」
いきなり世界観が、西欧の昔話チックなものに早変わりしたような。
「この最上層の終わり、かなぁ。明確な区切りがあるわけじゃないんだけど、途中に広い部屋があるのね。そこにコワーイ魔物がいたの! それで私、杖を奪われちゃって……」
妖精は自分の体を抱きしめて、ぶるりと体を震わせた。
「魔物って、その、どんな感じだったの?」
「…………」
顔を俯かせたまま、沈黙が続く。
嫌な記憶を思い出させてしまっただろうか。
オリがなにか声をかけようとしたその瞬間、その気遣いを叩き潰すように、妖精が握り拳をふりあげて泉の縁をなぐりつけた。もとが小さいため迫力はないが、上げた顔には激しい苛立ちが浮かんでいた。
「あんっっの性悪ぅうう!! 私が持ってた杖を通行料だとか言って奪って、それでなんて言ったとおもう? 『失せなこの蠅、しっしっ』、よ!! ホンットに失礼しちゃう!! 私は虫じゃないっつーのぉおお!!」
二度、三度と殴って叫んでスッキリしたのだろうか。ふぅ、と何事もなかったかのように息をはくと、妖精は「もう分かったでしょ?」と言わんばかりにオリを見つめた。
オリは黙って目を逸らした。
「……無理です」
ぼそっと答えれば、妖精も低く呟く。
「お願い」
「や、ちょっと無理ですね……」
さすがにそれは、お願いの規格範囲をオーバーしている。
こっちは有象無象ともいえる雑魚敵を数匹倒しただけであの有様なのだ。さすがにあの恐慌、パニック状態で格上に挑むというのは、かなり無理がある。あとコワーイ魔物とか怖い。
広い部屋なら、注意を何かで引きつけているうちに通り過ぎられるだろう。なんにしても、わざわざ挑む必要なんてない。
オリは他人行儀に、丁寧にお断りするが、さすがにこの妖精、そこで諦めるようなタマではなかった。
オリが羽織っているブレザーの下、カッターシャツの胸倉をつかんで訴える。それだけで一気に迫力が増した。
「お願いお願い、お願いよぉ! 私、どうっしても帰りたいの!!」
帰りたい。その言葉にぐらりと気持ちが揺れるが、歯噛みして振り払った。
しかしその隙に気が付いたのだろう、妖精は追いすがるようにオリを見上げる。
そのやけに虹彩ぎらつく瞳に涙は無いものの、訴える声はか細く、あまりにも弱弱しかった。
「みんなが私を待ってるの、帰らなくちゃいけないの……」
そして項垂れ、しょんぼりと肩を落とす―――。
どう考えても、哀れぶっていた。体格の差からくる庇護欲を高め、ここぞとばかりにチャンスを掴もうとしている。
もともと、性根が澄んでいるとは世辞にも言えないような言動ばかりだったのだ。これが算立てた態度だというのは分かり切っている。
それでもオリの心を打ったのは、ただ、「待ってる」という言葉だった。
オリの家は母子家庭、大学教授であった父が亡くなってからは二人きりの家族である。
父は交通事故で亡くなった。はじめはなんの現実味もなかったが、それでもやはり、かけがえのない一人が欠けたことに変わりはない。
ほんの少し広くなった空間。ふと浮かぶ会話の切れ目。急によぎる過去の思い出――月日が経つにつれ、それらもやっと薄れてきて、生活リズムが整ってきた。
その矢先の、この召喚だった。
過去の思い出で悲しむだけでなく、母と話しながら笑うこともできるようになって。仏壇の父親に愚痴を言ったり、相談事をしたりするようになって。遺品の難しい書物から目を背けるのでなく、何に興味があったのかと手を伸ばすようになって。
(そういえばお母さんはいつも、オリがどうしたこうしたって、成長報告してたっけ……)
「オリがいるから大丈夫よ」
「二人でがんばっていきましょうね」
「オリは何も心配しなくていいのよ」
そう話しながらほほ笑む母親の姿が、前みた夢の、ひとりぼっちでオリの帰りを待つ姿が、重なりあうように脳裏をよぎる。
「――待ってる人がいるなら、帰らなきゃね」
苦笑じみた顔で零された言葉に、妖精はその顔をぱあっと輝かせた。
しかし、そこで必要になってくるのが作戦である。オリと妖精は急遽作戦会議を開くことにした。
まず目的としては、妖精は杖を取り戻したい。オリはそこを通過できればいい。
こうしてみると、別にコワーイ魔物を倒す必要はないわけだ。
「とりあえず、物々交換を申しでてみようと思う」
珍しいものを探して、通行する権利プラス杖を平和的交換で手に入れたるのだ。
妖精には、ぶん殴られて奪われるのが関の山であると言われアッサリ却下された。かなり暴力的な魔物らしい。
聞けば、「オリの数倍はでかくて、ものっすごくケチでがめつい性悪女」だとか。
女性なのか……。
「魔物の注意を逸らして、杖だけとって逃げ出す!」
オリが魔物の注意をひいている間に、妖精が杖を取り返す。そしてお互いタイミングを見計らって逃げ出す。完璧だ。
「それが一番簡単そうだけど……たぶん通路にはいって追いかけてくるわよ?」
ダメだ。この迷宮は交差路すらない一本道だ。逃げ続けてもキリがない。
広い空間に住みつく魔物というから、そこ以外身動きが取れないほど大きいと思ったのだがそうでもないらしい。
「うーん。倒すしかないのかなぁ」
「まあシンプルで確実よね。実力さえあれば、だけど」
そこが一番の問題なのだ。
まあ一対一で正々堂々と戦わなければならない、というわけではない。通路が使えるというのならば、トラップでもなんでも、いくらでも手はある。そのための準備や道具は、もちろん必要だが。
「……じゃあ、その方向でいこうか」
今使える全力で、魔物を倒す。不安がっていた妖精だが、結局賛成してくれた。
正直かなり嫌だが、帰るためにはしかたのないことだ。絶対に、生き残って帰ってみせる。
とりあえず方向性も決まったところで、オリはトラップに使えそうなものを集めにいくことにした。
妖精には、まだその部屋に魔物がいるのかどうかを確かめにいってもらうことに決めた。
別れ際に妖精は、そうだ、と手をぽんと打って提案した。
「最後にサービスよ。どれくらい強いのかチェックしてあげる!」
そんなこともできるのか。
これは妖精の特殊能力なのだろうか、と感心するオリを、爬虫類のような杏仁型の瞳がギロリと光って見つめてくる。
「……」
謎の無言。剣を構えたて見せたりしなくていいのか。
どういう風に見えているのだろう、やっぱりRPGのゲームっぽく数値化されているのだろうか。
オリがこっそりとワクワクしている間、つまりそれから数秒も経たないうちに、妖精は「あー……」と意味深な声をあげてオリから目を逸らした。もう終わったらしい。そのままだまって評価を待つが、妖精は何も言わない。
オリはなんとなく察しがついて、切なくなった。
「……」
結局、こちらから声をかけることにした。
「どうだった?」
妖精はなにやら、もごもごと口籠らせている。全くもって聞きとれない。
「え?」と聞き返すと、妖精はひょろひょろと視線を泳がせて、それから観念したようにオリの目を見た。
「……数字で例えるならゼロってかんじね」
「ぜろ……」
オリはぽかんと呟く。それだけ底も浅けりゃ時間も数秒とかからんわなぁなんて他人事のように思った。
というより、RPGの序盤にすら追いついていないというのはどうなのだろう。
妖精はまたオリをちらりと見ると、
「えぐい……」
と呟いて、グロテスクな事故現場でも目撃してしまったかのように、その小さな顔を両手で覆ってしまった。
まさか生きている間に真正面から「えぐい」という評価をもらうとは思ってもみなかった。
(ほ、ほんとにどういう状態なんだろ)
オリのステータスは目もあてられないような惨状なのだろうか。攻撃力、蛾並み。防御力、紙程度。とか、そんな感じなのだろうか。……なんだか段々と悲しくなってきた。
なんとも言えない沈黙にその場がつつまれる。
妖精は両手で顔を覆ったまま言葉を濁してから、うん、と呟いた。
「つよさだけがすべてじゃないわよね」
「うん……」
とりあえず頷く以外に、どうすればよかったのだろう。
取って付けたようなフォロー、というよりも慰めに見送られ、オリはしょんぼりとその場を後にした。