『天使』、あるいは『ご馳走』
オリはリュックサックを背負って迷宮内を歩いていた。珍しく、今は周りを歩く仲間もいない。
きょろきょろと視界を彷徨わせながら、天使の姿を探していた。あの蜘蛛女の語っていたことを思い出しながら。
「あたしのご馳走、つまりあんたの言う天使にはいくつかの種類がある」
オリはその言葉の一言一句も聞き漏らすまいとするように、今までになく真剣にその耳を傾けた。いっそ鬼気迫る雰囲気だったが、ヤル気があるようでなにより、と蜘蛛女は気に留めた様子もない。
「まず、あんたらが遭遇した、破壊の限りを尽くす『暴れん坊』。あれがあたしの目的、今回のメインディッシュさ」
にんまりと舌なめずりする蜘蛛女の双眸が爛々と輝く。
「見たなら説明は要らないね。人型で、銀の翼、武器を持ってる。以上。天使どもの中じゃ一番巨大な個体だよ」
「あれで?」
「ああ。あたしの知る中で、だが。で、その次にでかいのが、『歩兵』だね。これは『暴れん坊』とは違って、迷宮内をふらふらしてる天使だ。一番よく見かける奴だね。アンタより少しでかい程度の人型で、だいたいが剣か槍を持ってる。チンケな銀の羽も生えてるが――ふらふら浮けるだけで、高く飛べはしないみたいだね」
「何が違うの?」
「上からの襲撃がなくて殺しやすい。あたしにとってはそれだけの意味しかない。こいつは迷宮内を彷徨って、魔物と見ると襲いかかってくるんだ。ま、大して強くはない。オツムが弱い――というより、考えるってことをしないヤツだからね。ちなみに私の主食だ」
嬉々とした手のひらでうっとりと撫でられた、蜘蛛女の巨大な腹。その中に収められたものを想像して、オリは閉口した。
天使は嫌いだし、それを糧にする蜘蛛女の情報は非常に有益だ。が、どうにもこの魔物は、好きになれそうにない。
「なんだいその顔」
「いや。天使って、結構大きいんだなーと思って。一番小さいのは、どれくらいなの?」
「あんたの頭くらいかな。――それが、『笛吹き』だ。羽のついた、白い球体。よくその辺を飛んで、魔物を見かけてはよく分からん音を立てて味方の天使どもを呼び寄せる。ただ高いとこにはいけないみたいでねぇ。とろいし鈍いし、すぐ殺せるから、小腹が空いた時にオススメさ」
「最後の情報は要らないかな」
オリの言葉に、蜘蛛女は「勿体無いねェ」とぶつぶつぼやいた。しかしオリが急かすと、やがて渋々と言った様子で続きの説明に移った。
「んで終わりが、『厄介な羽』だ。歩兵と一緒に行動してるね。羽のついた、口の長い……虫? みたいなもんだ。こいつは厄介でね、見た目を変える」
「え!?」
「具体的に言うと、相手に合わせて姿を変える雑魚だ。変化する時間が結構長いからね、その間に食っちまえばいい」
「……」
――以上、最後まで食欲を先行させた説明だった。しかしどれも大変有益な情報には違いないため、オリは全ての情報を反復し、脳に刻み込む。
蜘蛛女が惜しげもなくこれほどの情報を開示したのは、他でもない。オリ達に、天使の捕獲、あるいは殺害を手伝ってほしいからだった。
「雑魚じゃなくてね、『暴れん坊』を食ってみたいのさ」
オリは少し考えたが、結局その頼みを受けることにした。
天使があまり珍しい存在ではない、特に『歩兵』と遭遇する可能性は高い、ということが分かったためだ。オリと仲間が傷つく確率を少しでも下げるために、もうしばらく、この蜘蛛女――恐らく他にも天使についての情報を持っているだろう、珍しい存在――と行動を共にするべきだと考えたのだ。
トゥケロは語り終えて満足げな蜘蛛女を、ひどく胡散臭そうに見やった。彼はこの魔物のことを微塵も信用していないみたいだった。
「お前、本当に魔物は食わないんだよな?」
「はぁ? 頼まれたって食って堪るか。昔はともかく、今は考えられないね」
心外だと言いたげな顰め面だった。無理解な発言への苛立ちさえ感じ取れる表情である。
この迷宮で、これほどまでに拘れる事があるのは幸せなのかもしれない、と内心思いながらオリもついでに尋ねた。
「人間も食べないよね?」
「人間? ああ、あんた……人間か。そうだね、言われてみればそうだ。『落叉児』かい?」
「え? ええと、『落者』だけど」
「ふぅん、人間ね。……どうにもそうは見えないね」
何気ない呟きだった。嫌味でもなんでもないそれに、どう答えたのかはもう覚えていない。落叉児という言葉の、具体的な意味を問うことさえ忘れていたのは、覚えているが。
「……」
オリはなんとなく、膨らんだリュックサックを背負い直した。
今こうして仲間同士別れて行動しているのも、蜘蛛女の指示だった。
「折角これだけ人がいるんだから、ばらけて行動して、一刻も早く天使を見つけよう」
「まあ確かに尤もかもしれないが、さすがにリスクが大きいし受け容れられない」
「あたしは腹が減ってもうもたない。早く天使を喰いたいんだ」
「しかし」
煮え切らないオリ達の態度に、ぎりぎりと音のなるほど歯軋りをし、苛立ちを露わにする蜘蛛女。食事のこととなると、あまりにも沸点が低くなるようだ。オリは今更ながらその執着に空恐ろしいものを感じた。
しかし、怖いからといって退ける時もあれば退けない時もある。オリはそれを、この監獄迷宮を通して学んできた。
頑なな様子のオリ達に、蜘蛛女はやがて、渋々といったかたちで切り出した。
「――分かったよ。もし協力してくれたら、もっといい情報をくれてやる。
天使の殺し方について、ね?」
周囲を警戒しているのか、物思いに耽っているのか。
なんとも中途半端な仕草ばかりのオリの背後をつける、鮮やかな赤色があった。メイヤだった。
風船のように膨らんでいた、あの特徴的な帽子はどこへやったのか。その頭上には、残りの二人から奪ってきたダイヤモンドの王冠が輝いている。マリアの冠だ。
――これと、ヘレンが、私に力をくれる。
彼女はそう信じていた。片耳をピアスごと引きちぎられてから、どこか調子の悪いこの体でもきっと――。
彼女はオリの華奢な背中を改めて睨み付けると、するりと空気に溶け込むようにその姿を消した。




