少年とオリ
オリ達は迷宮を進み、また別の開けた場所へと辿り着いた。
しかし、オリはそこで足を止めてしまった。
「……ごめん、少し休ませてほしい」
いくら目的があるとはいえ、彼女はそこまで頑強でも無ければ薄情でもない。あのような出来事の後だ、動けなくなるのもまた当然と言えた。
オリは離れたところで、独りぼんやりとしていた。しばらくすると、妖精が迎えにきてくれる。それまで彼女は黙々と思索に耽ることができる。
この階層もまた、やたらとだだっ広いところであった。ミオのいた所とは異なり、高さはさほどないものの、奥行きはある。岩陰もあれば草木もあり、視線が通り辛い場所だと感じた。
――ここにも、天使は来るのだろうか。
それからもオリが思考に瞳を沈ませ、憂鬱げに地面を眺めていると、やがて少年が現れた。
彼はどこにでも来る。そしてどこかへと帰っていく。あの天使たちと、似ていなくもない。
「やあ。何を考えてるの?」
「いろいろ――前のこととか、ミオのこととか。昔のこととか。色々、ちょっとずつ思い出さないといけないから、思い出してる」
まるで義務であるかのような口振りだった。
「何のために?」
尋ねる少年に、オリは何も言わなかった。しばらく彼の、美しい造作をした顔をじっと見つめていた。
「……なんで少年は、いちいち私に会いに来るの?」
「――君は、僕がはじめてまともに言葉を交わした人間だ。それが理由かな」
「だけど人間なんて、今までいくらでもいたでしょ。なんで話さなかったの?」
「君は、なんでも他人に尋ねるね。別にいいけれど」
「自覚はある。……気を付けるよ」
オリはちょっと気まずげに目を逸らした。
少年はどうでもよかったので、とりあえず先ほどのオリの質問に答えることにした。
「話してみようとすら思わなかったから」
「どうして?」
言ったそばから。少年がそう言う前に、オリは照れたような顔をした。
そのため少年は一度口をつぐんでから、また開かねばならなかった。
「僕が神様だったからかな」
「今もでしょ」
「そうだけど」
だからこうも長い期間、人と会って語りあう――人付き合いというのだろう、それをしたのは、オリがはじめてだった。
「だから、初めて君と話したときは、ずいぶん感慨深かったよ」
そうして振り返ってみれば、それはずいぶん、昔のことのように思われた。
オリは「そう」と言って唇を一度舐めた。正確にいうと舐めるような素振りをした。そして、
「今日はよく喋るね」
と呟いた。
「君が喋るからね」
「……そうかな」
「僕はそう思った」
少年は相手を落ち着かせるような笑みを作って微笑みかけたが、オリは気もそぞろな様子で自分のつま先をながめていた。くたびれた靴先は、すっかり苔や泥で覆われてしまっていた。
「あのね、さっきのはなしだけどね、」
「ん?」
「ミオの――昔のことを、思い出すって話。こうやって生きていると、いろいろ、こそげ落ちていってしまう気がして、まるで私が私じゃなくなって、人間じゃなくなってしまうような気持ちになる」
「それで何になるのさ」
「分かんない」
オリは戸惑ったように呟いた。ざらついた不安から身をよじって逃げ出そうとしている、物も知らない赤子のようだ。
「たぶん粗暴で、無知で、啓蒙も殴り潰すような何かだと思う。野性的な」
「野生ねぇ」
「ううん」
「野性的な、ね」
「うん」
細かな、取るに足らない差異に思えた。しかし彼女にとっては確固とした違いを持ったものなのだろう。はっきり首を振るオリを見て、少年はおかしく思った。
なんとなくそれで馬鹿にされたのをオリは感じ取ったが、それでも口を開かずにはいられなかった。
「それで――ええと、減ったらその分足さないといけない気がして、その分っていうのは、前の自分が持っていたものだから、それを思い出さないといけない。私は"思い出のなかの私"で、私の身を包まないといけない。だからその、昔のことを思い出すんだけど、」
「落としたままじゃ駄目なの?」
「駄目」
オリはキッパリと言い切って、一度口を止めた。
そうするとオリは、なんだかひどく咽喉が渇いているような気がして、水を飲みたいなと思った。それでも、目の前の少年がこうして彼女の次の言葉を辛抱強く待っているものだから、結局そんなことを言い出すのはやめて、話を進めることにした。
「落としちゃったぶん、思い出して足さないといけないんだけど――その、いつのことを思い出せばいいのかな、って思って……。なんというか、段を経て落としているわけじゃなくて、ちょっとずつちょっとずつ、気付かないうちに削れていっちゃうものだから……。ええっと、まあとにかく、私が思い返す時っていうのは、思い返して幸せになれる時なのね。笑ってたり、馬鹿やってたり、のんきだったりしていた時。ミオのこととか、リューリンのこととか、トゥケロやプリェロ達のこととか。……ほんとうは、迷宮に落ちてくる前の、私の、前の世界のことがいいんだろうけど」
「うん」
「でも、ミオとかの方が最近の分、鮮やかに覚えてるから、どうしても、さ。……もちろん、前の世界のこともよく思い出すよ」
それが罪深いことであるかのように、オリは早口で言った。
その、滑稽を通り越していっそ哀れな姿から見るに、考えたことを頑張ってまとめようとしているというより、考えた結果頭に浮かんだ言葉をそのままつらつらと喋っているようだ。
「それで私は落としちゃったものを思い出そうとする。例えば前の世界のことだと、そうだなぁ。お家の間取りや観葉植物の感じ、学校の友だちから聞いたおかしな近況。見ていたドラマのあらすじだとか、昔どこかで聞いた歌の、うろおぼえの歌詞だとか、思い出して歌ったり。うん。曖昧で、ほっといたら忘れちゃいそうなことがいいと思う」
「……」
少年の目を見ようとしたが、結局怖くなって、オリはまたつま先に視線を戻した。
自分のことを話すというのは、なんと難しいことなのだろう。喋っても喋っても、肝心の伝えたい言葉というものはちっとも出てこない。出てくるのはどれも輪郭が溶けてしまったような、ふわふわとしたものばかりなのだ。
そのうち相手に分かってもらいたいという気持ちすらしおれていって、諦めて、放り出してしまいたくなってくる。
「……なんの、話しをしてたんだっけ」
「野性的ななにかの話」
「そっか。だから私は、あの、『草』ってところはあんまり好きじゃなかったんだな。皆が団結して好戦的な手段を選んでいるから、どうしても……。それが人を人として認識する、本能と理性の狭間の、私にとっての壁のような気がして、だから……」
そうしてオリが、しばらくぶつぶつ呟いている間に、少年はいなくなっていた。
「……」
諦めたような暗がりがよぎる瞳で、オリは周囲を見回して彼の姿を探した。見つからなかった。
どこへ行ってしまったのだろうと、空虚とは違う、どこか不思議な既知感とともに、オリはしばらくその場に座りこんでいた。
「ほんとうに、どこへ行ってしまったんだろう」
たまに、彼が去ってこうして一人になったとき。仮に『少年』と呼んでいる彼というのは、本当は存在なんてしていないのではないか。そんな、一種夢想的な考えがオリに取り憑く。
あんな者、ほんとうは存在なんてしていなくて、とするとつまり、彼はオリがつくった幻なのではないか、ということだ。
対話なんてしていなくて、それすらも嘘で、全部オリのおかしくなった脳みそが創りあげたものなのではないか。
呆然と、黙りこくって座りこんでいるオリの前に、木製のコップが差し出された。
「はい。水だよ、飲む?」
「――ありがとう」
オリは受け取ったが、一口だけ口に含んだだけだった。渇こうが餓えようが、別に水分を摂取しなくてもいいと、体が理解していた。
最近、小食になったどころか、食べ物を口にする必要性も感じられなくなっていた。それはトゥケロ手製のドラゴンスープがきっかけとなったトラウマ事件のせいではない。オリの肉体が、本質的に変化してきているのだ。
なんとなく気が付いていた。
薄々、その事実と向き合わなければならないと、分かっていた。
「どういたしまして。もういいの?」
少年は親切そうな素振りと笑顔で、それを迫っている。
「もういいよ、ありがとう」
「じゃ、これでおしまいだね」
言うと同時に、彼の手からコップが消えた。
「本当にもういいの? 何か僕に言いたいことは、かけたい言葉は、打ち明けたい想いは、もうない? なんだっていい。なんだって聞いてあげるよ。君が望むのなら、愚痴だって過去だって懺悔だって、ね。――知りたいことを、尋ねたっていいんだよ。君が、本当に知りたいことを」
オリはしばらくの間、無表情で沈黙していた。ただ静かに、己の右腕を撫でながら――。
やがて顔を上げて少年の目を力強く見据えた。彼女の双眸は真剣な光に輝いて、いっそ狂気的ですらあった。
「お前に言うべきことは何もない」
少年は「そう」と残念そうに頷いた。「ザンネンだなぁ」とわざとらしく実際に声に出しもした。
「……」
「何故だろうね。僕が女性だったら、君ももう少し心を許したのかなぁ。あはは。死んだ獣人の娘とか、妖精は…無性別か。スライムもだね。竜人は一応雄だったか? まあいい」
「……」
「何も言わないのか。つれないなぁ。女の子の友達なんて、絶対君が喜ぶと思ったのに。ねえ?」
言って少年は、片掌をその顔に添えた。
やがてそれを半分だけずらし、オリの前に晒す。
少年のしなやかな均整のとれた身体はそのままで、背後から見たところで何一つ変化は無かっただろう。
しかしオリは色の無い目を見開いて、愕然とソレを見た。
「やめてよぉっ!!」
彼女の悲鳴の激しさに少年は一瞬ぶたれるかと思ったが、オリはその場から動こうとしなかった。いや、ただ顔を覆って泣き崩れている。
「み、……違う。ただの女、で、女じゃない! 男でいて。私はお前を男として見る。認識してやる。どうあってもだ!」
オリは赤く充血した目で、いつも通り悠然と佇む少年をねめつけた。
「お前なんかにもう二度とミオを見たりしないっ!! 絶対に!!」
オリは対峙する者の顔に、ミオの影を見た。
それは許されることではなかった。だって目の前の彼とミオ、何一つ似ていない。外貌はもちろんのこと、中身もそうだ。なのにミオの面影を見ただなんて、まさかそんな薄情な見間違いをするなんて。
「どっかいって! どっか行けぇ!! お前が、お前が私の幻であって堪るか! 消えてよぉ!!」
オリは半ばパニックになって己を、それ以上に目の前の少年を責めた。
彼は平然と、彼女がぶつけてくる剥き出しの感情を眺めていた。オリが何を喚こうと、彼自身が仕向けたことなので、まさか動揺があるはずもない。彼にはそれを、手に取って検分することだって出来た。
「オリ」
「なに」
「またね」
「――また、か」
オリが皮肉気に独りごちる頃には、少年はやはり姿形もなくなっていて。
残されたオリは己の膝を抱え、しばらくその場でじっとしていた。




