スライムは決意した
トゥケロは移動しようとするオリ達に、当然のように付いてきた。
「トゥケロ、戻らなくていいの?」
「ああ。お前に付いていこう」
その申し出に、オリは思わず「本当!?」と声を上げた。トゥケロは黙って頷く。
「あ、私は嬉しいけど。でも、でも――」
「気にしなくていい。俺は『森』で育ったからあそこを守りたかったけれど。皆すでに散り散りになって、もはや集落は無いに等しい。彼らは平穏に生きていける場所なら、『森』じゃなくてもよかったんだ。気持ちは分かるし、当然のことだが。それに、今となっては長もいない。幼馴染も。――今一番気にかかるのはお前だから、それでいいんだよ」
オリはいくらかの言葉を飲み込んで、ただ「ありがとう」と真っすぐに伝えた。
「しかし、本当に生きていてくれてよかった。通りすがった場所全てが襲撃されてたもんだから、てっきりお前らも、と思って気が気じゃなかったぞ」
「それって岩嫌いの――スライムさんの故郷も?」
「ああ。そう詳しくは回ってないが、あらゆる岩場が崩れてしまっていた」
「そう」
オリは呟いた。
岩嫌い。人間そのものの姿形をしていた。恐らく、もう会うこともないのだろう。
引き摺ってでも仲間にしておけば、と微かに浮かんだ考えはすぐさま否定した。そんなことをしても、死ぬときは死ぬ。意味は無い。
「スライムさん、戻ってみなくていい?」
「大丈夫です」
「折角越して来ようとしたのに、災難だったね。どこか別の場所とかあるかなぁ。後でリューリンとかに聞いてみようか。ね」
「いえ」
静かな声であったが、スライムはきっぱり首を振った。
「いいんです」
オリはしばらくスライムの顔無き表情を窺っていたが、やがて「どうしたの、急に」と軽く尋ねた。
スライムはしばらく、考えを纏める賢者のように黙っていた。
「少し、分かったことがあるんです。生き延びるのに道は無い、ということです」
「どういうこと?」
スライムは考える。自分はあの、自分が暮らしていた横穴から別の場所へ移動したいと考えていた。
トゥケロについていくか、オリについていくか。オリの暴力性に魅せられ、彼女についていきたい、自分もあのような力強さを身に付けたい、と考えた。
それは今回の事態で、途轍もない間違いのように思われた。今まで引き籠ってばかりで、何一つ自ら選らんだことのない生物にとって、それはあまりにも大きく、打ちのめされるような経験だった。
しかし今、こうしてトゥケロの話を聞いてみれば、彼の階層も襲われて、自分がいたところも結局は襲撃を受けている。
どこを選んだって、自分に災難が降りかかっていたことに変わりはない。
結果、今あるのは、スライムはまだ生きているという、それだけの事実だった。
それなら、選びたいがままオリを選んだ、今この道が最も素晴らしいに違いない――。
――しかしそれも、ただ考え方の違いなのだろう。少し振り返って、ただ自分で納得した、という、それだけに過ぎないのだ。
「……歩くための道なんて、どこにも用意されていない、ということです。結果、私達は戦わなければ生き残れない。私がどれを選んで、そしてうまく逃げおおせたところで――それに遭ってしまえば、戦うしかない、ということが」
「それって?」
「敵、ですかね」
スライムは曖昧な言い方を零したが、オリには分かる気がした。生物無生物問わず、自分たちの邪魔をする、あらゆる存在のことに違いないと思った。
そういえばこのスライムがオリに付いてきたキッカケは、あの『先生』とやらをボッコボコにしたことだったか。
再度ボッコボコにしてやった挙句、ギリギリで命だけは見逃してやった『先生』――彼に感謝しなければならないこともあったな、となんとなく思いながら。
(もう少し手加減してやってもよかったかもしれない)
と己の右拳を見つめるオリに、スライムは首を傾げた。
「どうしたんです?」
「……ん、なんでもないよ。これからもよろしくね」
「ええ。改めて、よろしくお願いします」
オリはにっこり頷いて、改めてスライムを仲間の一人として迎え入れたのだった。
少年と呼ばれる彼がとんと爪先をつけた地面の、そのすぐ傍らにはオリが這いずったようにうつ伏せていた。
崖の上から落ちてきて、そのまま水面か、もしくは川中の岩石にでも体を打ちつけたのだろうか――夥しい量の血を流していた。最早川の流れでは誤魔化しきれないほどだった。
それでも、右腕すらない彼女がここまで来れたのは生への執着か、それとも神の御業たる偶然か。
もちろん少年は彼女に、指先一つ出していない。
彼はふとしゃがみ込むと、目尻を愉快げに歪ませながらオリの様子をじっと眺めた。
両手で頬杖をついて、彼女のその様を、或いは生の痕跡を美しく微笑みながら見下ろしているのだった。
「オリ。生きてる?」
問い掛けに当然応えはない。オリは彼女にしては珍しく何も喋らない。
ただしばらくの沈黙のあと、ほんの一息、長く細いそれを吐いた。微かで密やかで、まるで最期の溜息のようだった。それだけで、体一つ分小さくなってしまうのではないかと思われるほどの。
「……」
彼女はほとんど死人のようだった。濡れて不吉に光る黒髪が頬に貼りついている。肌は土気色混じりに青褪め、呼気も聞こえないほどだ。
彼が初めて彼女を目撃したときよりも、よほど酷い有り様だった。
「……オリ?」
あの頃と異なるのは、オリが自力で目を覚ましたことだろう。
彼女は鉛のように重たげに瞼を開いて、そのまま瞬き一つせず、虚ろな目玉に少年を映した。
「生きてたんだ」
少年が微笑みかけると、オリは「ああ、」と何かしらに納得したような声を零した。
「――うん、心配かけてごめん」
それに一瞬呆気に取られた少年が、何かを口にするよりも先に、オリは目を閉じてしまっていた。体から力も抜けており、再度気を失ってしまったのだろう。
少年は溜息を吐くと立ち上がって、オリを一瞥した。何かしら手を貸してやろうかとも思ったが、今の調子ではこの邂逅さえ忘れてしまっているだろう。
(……まあいいか)
浮かび上がれば、階層の様子が一望できた。
銀翼の天使どもは縦横無尽に暴れ回っていた。
木々は薙ぎ倒され、いくつもの木端が川に流れている。魔物も天使も、死体は倒されるがまま放置され、どこかで誰かの悲鳴が、罵声が響いている。大地すら抉って回っているようで、崖から岩肌が崩落している。
オリのあの位置なら恐らく大丈夫だろうが、うっかりしていると彼女も圧死しかねない。
前までなら、わざわざ手を貸しにいってやっていただろうけれど。
(今はもう必要あるまい)
少年は遥か眼下、点のようになった彼女を見下ろす。
いずれ目を覚ますだろう、そうしたら彼女は立ち上がり、また進み始めるのだ。絶え間なくとは言えまい。倒れ傷つき苦しみ、それでも最早忘却の彼方にあるだろう希望に縋りつきながら、ただ迷宮最下層を目指して――。
それを眺められる喜びを胸に、少年は頬を緩ませた。
「楽しみにしてるよ、オリ」
ついで、己の姿を認知し、武器を手に立ち向かってくる天使に目をやった。
彼は今度は、別の意志とともに微笑んだ。




