『よほどのこと』
銀翼の天使の群れ。鉱物とよく似た光沢の羽を、迷宮の光源に照らしながら、武具に身を包んだ彼らは散る。
あらゆる生物目がけて、その剣を振りかぶる――。
異常事態に飛び起き、ひっくり返るように飛び出したオリは地面に座り込んだまま、呆然と空を眺めていた。彼女だけでない、皆がそうだった。
このようなこと、ありえない――いや、ありえなかったのだ。
咄嗟のことながら、オリは理解した。
この事象――この襲撃が、どれほどのものなのかを。
最上層アドベントから降る途中で遭遇した、下から上へと移動してきたらしい『黒虎』。
三つ巴の階に移ってきた挙句、姉妹の仇すら捨て置いて逃げるように移っていった『四姉妹』。
全員、『よほどのこと』があったから、移動したのだ。
それがこれだ。天災のように襲いかかる、全てを打ち据える銀翼の天使たち――。
そうだ、思い出した。このことを、誰から聞いたのかを。
「今さらだけどさ」
「ん?」
だらしなく胡坐をかいたオリの前で、少年は首を傾げてみせる。
「私みたいに、この迷宮内をうろうろする人って少ないのかな」
「今さらだね」
少年は笑っていた。いつも通りだった。
「『よほどのこと』がなければ、基本的に移動なんてしないよ。何があるのか分かったものじゃないし、できるだけ己の寿命を全うしたいと考えるのは、知能ある生物の性だよ。腰を落ち着けたがるものさ。特に、ここのアレらはね」
わざとらしい言い回しだった。
「その言い方――どういう意味?」
「大したことじゃないよ。寿命が長いからという、それだけの話」
『四姉妹』がああも急いていたのは、結局仇からさえ逃げたのは、この天使の出現を察したからだろう。それこそお得意の、超能力かなんかで。
(ということは、トゥケロの階層も――?)
もしかしたら、今ごろ。
オリは唇を噛む。血も出ていないのに、緊張感で鉄を噛んでいるような心地だった。
そうだ。あの階層で、『草』で、少年はこう言っていたじゃないか。
「早くこの階層から移動したほうがいい」
オリは片手で髪の毛を握りつぶした。
私は馬鹿だ、愚かだ、愚図だ。気を抜いていた。抜いた自覚もあって、それを不安にすら思わなかった。より臆病になるべきだった。私はこんなにも凡愚なのに何を勘違いしていたのだろう。何を平然としていたのだろう。怯えるのはストレスだったし気が滅入った。だからそれから逃げたのだ。平然とする道を選んだのだ。私は馬鹿だ。
一息の間にそれだけ考えて、思考を切り替える。
それよりなんとかしなければ。今すぐこの階層を抜け出す、それにしても距離が遠い。この人数では遅れがあるだろう。いやこれを考えているうちに飛びだせば。
むしろ、片っ端から迎え撃つ? これだけいれば戦術も幅広い。
しかしどうやって。
そしていつまで。
額に汗をかくくらい、ぐるぐると忙しなく脳を働かせる。
そんなオリの肩を、ナオが掴んだ。
「オリ」
はっと顔を上げ、そのままオリは息を飲んだ。時が止まりそうなほど真剣な瞳が自分を見据えている。
「私を楯にしなさい」
言葉は理解できず脳をすべる。
オリはぽかんとした。
「えっ」
「えっ」
ナオは説明する。
全員は生き残れないと判断した、だからオリは逃げなさい。ミオと妖精と仲間達と、別の階層へうつりなさい。
「いっ、いや! いやだ! 何言ってるの!!」
オリは嫌々する子どものように悲鳴を上げた。
皆で逃げよう、皆で助かる方法を、私は今考えてるのに。
「オリはまだ子どもだからそんなこと考えるの、分かるけど」
「やだぁ!! ミオ、なにか、何か言ってやって!!」
オリはミオを振り返る。
ミオは何も言わなかった。怒りにもほど近い、それにしては痛切な表情で黙っていた。視線をオリから逸らして、きつく歯を噛みしめていた。
オリは言葉を失くし、そして、
「ごめんオリ。寝てて」
ナオが彼女を素早く打った。――気絶させるのは得意だ。なんて、まさかこんなことに使うとは、誰も思いもしなかったけれど。
意識が落ち、くたりと崩れかけたオリの痩身をミオが支えた。
ミオより若い者達はもう逃げた。残るはミオと、オリだけだ。
ミオはナオを見つめた。
久しぶりに会った姉。強い姉。心配性で、面倒見のよい姉。本当は女性らしくて、好きなものには一直線で、だけどそれをうまく出すことができないのだ。
もしかしたら、仲間になってくれるかもしれない、なんて。一人勝手に想像したこともあったけれど――。
ナオは微笑んだ。いつもの歯を見せるような、跳ねるような笑みではない。寂しいくらいに穏やかな、そんな微笑み。
ミオはぐっと言葉を飲み込み、全てを堪えた。
そしてそのまま頭を下げると、オリを抱えたまま、何も言わずにその場を去った。
「……」
ナオは妹の、思っていたより大きくなっていた背中を見送ると、踵を返して仲間達の元へと戻っていった。
暗い話が続くので、しばらく更新ペース(ちょっとだけ)上げます




