落者(らくしゃ)
『落者』とは、監獄迷宮に落とされた者を指す言葉である。
つまりそれは、人間を意味する。
あの二体の敵と遭遇後、オリは仲間達――ミオ、リューリン、未だ呼び方も定まらぬスライムに、落者とは何かと尋ねた。
答えはどれもまちまちであったが、辞書のようにシンプルにまとめてしまえば上の通りである。
歩みを進めながら、オリは更に問う。
「人間という言葉と使い分ける意味はなんなの?」
「うーん、そうね。……こんな場所にいる人間って強調したいときか、もしくは落ちてきた者だ、ということを強調したいって感じかしらね?」
「彼らの場合、つまりオリ様は『この監獄迷宮の外から来たほどの部外者だ!』ってことですね」
オリはそれらの言葉を吟味するように、しばらく黙った。
「スラング、とは少し違うのかな」
「そーね。アタシを妖精と呼ぶか魔物と呼ぶかリューリンと呼ぶかっていう、その程度かしら? どれでもいいワ」
「ふーん。まあつまり、ここにいないはずの、普通じゃない奴! ってことだね。悪口でもなんでもない、見方の違いってだけか」
ぼやくように呟くと、ミオが小首を傾げる。
「オリ様は普通の人間ですけどねぇ」
「……ミオ」
オリが途中で足を止めて振り返ると、ミオは「はい!」と小気味よく返事する。
「前から思ってたけどさ、なんで人間を知ってるの?」
「え? どういうことですか?」
ミオはその問いの意図が分からず、きょとんとした。傍にいるスライムと妖精も同様で、難しい顔をしたオリの真意を窺うように、彼女をじっと見つめている。
オリだけがただ一人、違和感に触れている。
その事実に、彼女はなんとなく孤立を感じた。
「――だって、この監獄迷宮に人間はいないでしょ? なのになんで人間を知ってるの。ミオだけじゃない、リューリンも、スライムもそう。まあ妖精はあそこにいて、人間を実際に目にしてたらしいから、別におかしくはないけど」
オリは人間である。
――この監獄迷宮では、誰もがすぐにそうと判断してみせる。
「なんでどいつもこいつも、普通の人間が分かるの?」
普通の人間という外見についての知識。
人間は賢い、頭が使えるとのステレオタイプ的な認識もそうだ。
「誰が教えたというの。全員人間を目にしたことがあるって? 言葉をかわしたことが?」
別に、おかしくはないのかもしれない。
ここは、監獄迷宮。罪人が次々と落とされる常闇の地底である。
まず、落とされたとある人間がいくらかの魔物と出会う。次に、いくらかの魔物が移動し、その人間についての噂を広めていく。それが何度も繰り返され、人間についての知識が魔物たちの中に連鎖的に広まっていく――。
……だからといって、オリの出会ってきた誰もがそうしたように、人間を人間だと一瞬で判断できるのだろうか。
それとも出会ってきた全ての魔物が、人間と顔を合わせたことがあるとでも?
オリには分からない。
しかしそれは、おかしい気がしたのだ。
「どうしてなの。何があるの。あなたたちは、一体何なの」
魔物たちが、彼らが人間を知っていることについての違和感。それは警鐘のようにオリの頭の中で鳴り響いている。
反してミオ達はというと、あまりピンとこない様子で首をひねっている。
「そう言われたら、変ですね。私、よく考えたら人間に会ったのはオリ様が初めてです、わん」
「私も、見たことなかったです。でも、うーん……」
妖精は、「アタシは見たことあるもの」と他人事である。
拍子抜けするほどいつも通りの仲間達に、オリは肩の力を抜いた。
違和感は消えない。彼女の頭の中の片隅に、まるでシミのように貼りついてきっと一生消えない。しかし今この場で、彼女たちを問い詰めてもその答えは出ないのだろう。
答えを出すのは、きっとオリ自身だ。思考し、組み立て、いずれそれを見据えなければならない。
――しかし、監獄迷宮を下るなかでその答えを見つけたとして。
オリという人間はその時、その答えをどう扱うのだろう?
最近自分のことなのに、自分のことのように思えない時があるのだ。
何をしでかすか分からない。何を考えているのか、咄嗟にどう思考を巡らせるのかも分からない。そんな時がある。
(人間。魔物。落者。監獄迷宮……)
オリはまだ、何も知らないままである。
岩嫌いの壁画洞窟にオリは向かった。連れはいない。ごつごつした地面に座り込み、彼が細々と手を動かしているのを眺めている。
作業をしている岩嫌いの手はとんとんとリズミカルに動いて行く。しかしそこには何の感情もなく、まるで魂でも抜けているようだな、とオリは思った。
まるで虚ろな作業にしか見えなかったが、彼は何も苦に思わないらしい。慣れきったように岩肌に傷をつけ、時たま思い出したように何事かを鼻歌で歌った。
「……なに歌ってるの?」
オリが問うと、岩嫌いは彼女を振り返った。きょとんとした顔は子どものようである。
「え? 歌ってた?」
「鼻歌だけどね。気付かなかった?」
「指摘する人もいなかったからね」
これだからぼっちは。
オリが肩を竦めると、岩嫌いは壁画を描く手を止めた。
すると洞窟に延々続いて音が止み、オリは一瞬、静寂に飲まれてしまったように錯覚した。
「僕の鼻歌、どんな歌だった?」
「普通の感じ。ずっと同じフレーズ」
オリがふんふんふん、と再現すると、岩嫌いはピンときたようなきていないような顔で、「へえ」と声を上げた。
「その先はどんな歌なのかな」
「私に分かるわけないじゃん。知らないの? どこで知った歌なの?」
「さあ……物心ついたときから、ずっと此処にいたからなぁ」
どういうことかと詳しく問う。岩嫌いは自分のことであるくせに全く興味がないようで、説明もどこかおざなりだった。
いつのまにかこの洞窟にいて、その頃からずっと壁を削っている。
それだけだという。
それ以前のことは忘れてしまったのかもしれないし、もしかしたら存在しないのかもしれない。
どうにも掴めない岩嫌いの説明に、オリは眉を寄せる。
「どういうこと?」
「もしかしたら僕はこの場所で誕生したのかもしれない。ほら、精霊とかね」
「精霊ってそんな感じなの?」
「さあ、知らないなぁ……だって知らなくてもさ、死ぬわけじゃあないだろう?」
オリの不満げな態度に、岩嫌いはあっさりとそんなことをのたまってみせる。
それからまたさっさと岩肌を削る作業に戻っていった。かりかりと、今度は動物だろうか、単純な形だがやけに足が長くしなやかな体躯をしている。
そしてまた、鼻歌が聞こえる。
がりがりとした荒っぽい音のなか、優しくふんふんと歌が流れる。
「歌の続き、分からないなら作ったら?」
「うーん。興味無いや。つまらなさそう」
「ずっと岩削ってるやつの言葉じゃないよね」
「そうだね。でも岩は削らないといけないからさ。なんというか、作業だよね。仕事ではないけれど」
オリは「強制じゃないのに?」と言いかけて止めておいた。
現代にも、強制じゃないことをまるで強制であるかのように自分に課している者はいた。
恐らく彼もそういった感じなのだろう。オリにはよく分からないけれど。
オリはそれからもしばらくその場に留まって、ぼんやりと、ただ何をするでもなく彼を眺めていた。
しかしやがて何かに呼ばれたかのように顔を上げると、立ち上がってスカートについた汚れを払った。
スカートだけでなく、彼女の衣装にはもうこれだけじゃ落ちない汚れも多かったが、それはここで生きていく上では、しかたのないものだった。
「もう行くのかな?」
「うん。これから下に向かうの」
「そっか。短い邂逅だったけど、君に会えてよかったよ。なんでかな、心が安らいだ」
「それは私も。だって岩嫌いって人間みたいなんだもん」
ミオもぱっと見だけなら、犬耳を生やした人間に見えなくもない。
しかし彼女の肉体は筋骨に薄紙を貼ったように強靭で、手の甲には茶色い獣の体毛がもしゃっと生えている。オリは見たことないが本人曰く背中辺りにもあるのだとか。まるで刺青のようになっているらしい。
また、彼女の爪も歯も人の物は思えないほど鋭く強固だ。それで平然と生肉を引き裂き、食らう。ついでに言うとミオにはヘソもない。
――知れば知るほど、ミオは人間ではなくなっていく。
しかし代わりに親交も深まっていくわけだから、そう嫌なものではないのだが。
「右耳以外は、本当にそのまま人間だよね。ヘソある?」
「あるよ」
「その耳、触っていい?」
「うん」
オリは爪先を伸ばし、その小鳥の翼のような耳に手を伸ばした。
髪色と同じ濃茶色と、少しくすんだ白の羽毛。ふわふわと柔らかいが、手入れをしていないためかオリの予想よりはごわついていた。
「これ聴覚はあるの?」
「無いよ。最初からね。ただの羽根だし。そこで喋るのなら、もう少し大声で喋ってくれないかな」
オリはぎょっとして口を噤んだ。
「この羽根、何の為にあるの?」
「さあ。役に立ったことはないよ。飾りじゃないかな」
そんなことが、生物にありうるのか? どの部位も――特に身体上の目立つ部分というのは、生物にとってなにかしら意味を持っていることが大半だ。
――彼の異形の耳は、一体なんのために存在するのだろう?
耳の位置に羽があるのは、一体なぜ。なぜ、こんなちぐはぐな……。
「だから聞こえないって」
「何も言ってないよ!」
「そっか、ごめん」
「……ごめん、私、そろそろ行かないと」
「そう。さよなら、オリ」
「うん。ありがとう岩嫌い。ばいばい」
「ばいばい」
そして普通にこの場から去ろうとしたところで、オリははっとした。
「ねえ岩嫌い、最後なんだけどさ、『落者』って知ってる?」
肝心のことを聞き忘れていた。どうも彼と話していると、意味の無い会話でもいいかと流してしまいそうになるからいけない。
それが彼の外見故か、それとも内面故か。オリ自身にも分からない。
「ラクシャ?」と呟きつつ少し考えてから、岩嫌いは「あ」とおっとりした動作で手を打った。
「『落叉児』なら知ってるよ」
「ら、ラクシャニ? 何それ」
「んー、化け物かな。よくは知らないや。人間でも、魔物でもない。なんでも喰らう化け物らしいよ。それでその、『落者』っていうのは何?」
「監獄迷宮に落とされた人間のことらしいよ。皆に聞いた」
知らないならいいよ、とオリが言いかけたところで、岩嫌いは首を傾げる。女のように長い髪が肩から零れ落ちた。
「それは、『落叉児』じゃないの?」
「違うんじゃないかな」
オリは笑った。
岩嫌いはふぅんと、よく分かっていない子どものように、あまり興味の無さげな返事をしていた。




