夢現
元いた世界の夢をみた。
オレンジ色の夕日が窓からさしこんでいて、お母さんが台所で夕飯の支度をしていた。
台所の鍋のなかで、沸騰した湯がぐらぐらゆれている。テレビのなかでニュースキャスターが、微笑ましい地元の出来事を、テロップの後ろでにこにこと話している。
――だけどなにも音はしない。
無音映画でも見ているかのよう。
そんな静かな夢のなか、一人ぼっちのお母さんが、私の帰りを待っている。
ゆっくりと目を開くと、黄土色の煉瓦がしきつめられた壁がすぐそばにあった。
(夢じゃない)
だから帰れない。
胸がしめつけられて切なくて、少し泣いた。涙はいくつかのシミを残して、乾いた煉瓦に吸い込まれていく。
嗚咽が落ち着いてくると、オリは鼻をすすってから涙をぬぐった。
(大丈夫、これが夢じゃないならあれはただの夢だ)
全く意味の分からない支離滅裂な理論だが、思い込めば思い込むだけ安心できる気がした。
大丈夫、大丈夫。呟きながら目を閉じて、ひたすら自分に言い聞かせる。大丈夫、大丈夫――。
それからまた睡魔が襲ってきたので、縮こまるようにして眠った。
なんとなく、どこかで少年が笑っているような気がした。気がしただけだ。
「まず、君がここに放りこまれたワケだけど――最奥への到達を望んでいるんだろう。知らないけど。それが人間たちの目的らしいからね」
オリと少年が座っているところは、監獄迷宮の始まりだった。これ以上奥はなく壁がすぐ後ろを塞ぎ、彼らの頭上では水の塊がたゆたっている。不思議なことに一滴も落ちてこないそここそが、オリの投げこまれた『水神様のお腹』らしい。
あそこを無事に通り抜けると、監獄迷宮に辿りつくことができるのだそうだ。設計したやつは錘か碇に違いない。
ちなみにオリは通り抜けられず、途中で引っかかっていたそうだ。そこをこの少年が掬いあげに来てくれたらしい。
救いではないところがポイントだ。
「さすがにそれくらい聞かされてるだろ?」
聞かされてません……。
ほんと何がしたかったんだろう、あの白ローブ達。
げんなりとした表情を見て察した少年は、オリの答えを待たなかった。
「魔物を殺し道を進み、最深部へ到達してしまえば、君は自由の身だ。たぶんね。いや、全部終わったーってのこのこ出ていった瞬間、最奥の秘密を奪われるだけして殺される可能性もあるけど……」
人間の考えることなんて分からないしな。
神様であるらしい少年は、他人事だと思ってのんきそうだ。
後者の可能性のほうが明らかに高い、と判断できてしまう人間のオリは、もう冷や汗かきまくりだ。
「で、ついでに言っておくと、僕の目的も『君がそこへ向かってくれること』なんだよね。別に踏破してくれってわけじゃないけど……まあ、詳しいことは後で話すよ」
「……」
どうせなら今話してほしい。なんだってこうイチイチ不審なんだろう。後で話せて今はダメな理由なんて、ちっとも思いつかない。圧倒的に情報が足りなさすぎる――。
(いやいや)
オリは気を切り替えるように首を振った。状況把握するためにも、とりあえず話を進めるのが先決だ。
この状況で警戒してもしょうがないかと開き直りだした今でも、この謎多き少年については慎重な態度を取らざるをえない。
だって全力で怪しすぎる。
「その、最奥にはなにがあるの?」
「人は宝が眠っているというね。うるわしき古の金銀財宝か、人には過ぎたる神々の遺物、謎満ちた進歩と混沌のオーパーツか……。しかしそれもただの噂に過ぎない。見たことのある人間がいないからね」
「わざわざこんなトコこなくても、未開の地とかで発掘したら出てきそうなもんばっかりだね……」
そっちのほうがまだよかったかもしれない。
全身筋肉痛になってぴーぴー泣きながら異世界人にこき使われて労働するほうが、こんな湿気た地下深くで変な魔物だかなんだかにもぐもぐされるよりずっといい。
いや、よくない。しかもそっちはそっちで呪いという名の未知の病に襲われたりしそうだ。うん、どっちも嫌だ。
うなだれて頭を抱えているオリをちらりと見て、少年は淡々と話をすすめる。
「君の目的は、『元の世界に帰ること』だろ」
「……うん」
「結論から言うと、難しいだろうね」
「……どれくらい、その、難しいの?」
「不可能に近い」
あっけらかんと言われた言葉に、目の前が真っ暗になりそうだった。ぼわんと世界と自分の間に、濁った膜でもうまれたかのようだ。手に汗がにじみ、溜息もつけない。
「で、でも、絶対無理ってわけじゃない、ん、でしょ?」
震える唇で紡がれた質問に答えはない。
少年はふいと目を逸らし、オリはバクバクとうるさい鼓動の音に耳をすませる。
「まず、君を帰還させる術が存在する可能性が、極めて低い」
「なんで」
「白いローブ姿の女性たちに囲まれていたと言ったね。彼女らは何人いた?」
正確な数字は分からないが、なんとなく自分を囲っていた円の大きさから考える。「……たぶん、十人以上十五人未満、かな」
「この世界には二十二の神と、それを祀る二十二の大神殿、それぞれに仕える二十二の大巫女がいる。君が見たのは彼女たちだろう。そしてその数が足りていないのは、君を召喚した際に死んだからだと思う」
「し!?」
なんてハードな術だ。
そこまでして現れたのがこんなんだったということをざまぁみろと嘲笑ってやりたい反面、さすがに死んでしまった人達には申し訳ない気持ちになる。
オリ自身にはどうしようもないことだったにせよ、命がけで呼んだ切札がオリなんて、自分だったら死んでも浮かばれない。
「……も、もともと十人ちょいぐらいだったんじゃない?」
「まさか! それぐらい大変なんだよ。国家事業レベル。それなのにポイされるって、君はよっぽどの外れとみられたの?」
なぜ聞く。
「だいたい、帰る方法なんてあったら、今ごろ君はここにいないはずだ」
それもそうだ。わざわざこんなところに寄越さなくても、その場で「失敗しちゃった、ごめんね」と笑って還してくれればいいだけなのだから。
ただ、連れてくることができたのだからと希望を持っていたのは事実で、それをぶった切られたオリは項垂れた。
少年はそれにまったく構わず説明を続ける。
「まあそれ以前に、ここから出ることすら難しい。入口がアレ一個しかないからね」
見上げれば、夜の海のように暗い水の塊が、オリの不安を煽るように揺れている。
滝のない滝壺、『水神様のお腹』。
この水底の向こうの、魚類でも生息を忌避するような荒れ狂った激流を思いだす。
よくこうして五体満足でいられたものだ……。
「ここを出たら出たで、その先は城に繋がってる。あそこの奴らから逃げ出すのも大変だろう」
一難去ってまた一難か。
「生きるのってつらいね」
「それにそこでうまく協力に漕ぎつけたところで、元が泥でできてるようなもんだし」
「……」
詰んだ。現時点で帰る方法が何一つ見つからない。
無事帰宅した、という明るい未来のビジョンがガラガラと崩れ去っていく。
「まー、奥で何が眠っているかに期待だね」
「神も仏もねぇな」
思わず顔を両手でおおった。
たった三つ、されど三つの壁は高く、強行突破できるほど薄っぺらくもない。脆弱なオリには、そこまでの力も根性もないのだ。
――拝啓、お母さん。お家に帰るまでには、まだまだ時間がかかりそうです……。
それ以前に、一生帰れないかもしれない。
念願たる一縷の望みは遥か遠く奥深く、オリの手に届くかすら分からないのだから。