凶行1
暴力表現あり、注意
「というわけで、私は岩嫌いにあれこれできないよ」
オリはスライムにかくかくしかじか説明した。スライムは神妙に聞き入っている。
「その、危なくはない、ん、ですよね?」
「うん。その危険は無さそうだよ。ね、妖精」
「そうね。頭おかしい感じだったけど、お花畑的に狂ってる感じ! 自分しかみえないーって感じだったから、多分こっちに害はないわよ。多分」
「もし嫌なら、別のとこに移動したら?」
スライムの住処――じめじめ洞窟を眺めながらオリは問う。狭くて筒状のそこは不定形たるスライム以外はとても住みつけそうにない。
襲うものなどいないだろうが、問題はそのすぐ横に、より大きな横穴があるということである。
もし岩嫌いが、あちらの洞窟一面に壁画を掘り終え、もしもこちらに移動してきたら。この繊細なスライムは毎日騒音に苦しめられ、いずれそのぷるぷるの体もでろんでろんに溶けてしまうのではないか。
オリは少し心配している。
「でも引っ越すって、その、どこに?」
「別の階層とか。上に行けばトゥケロたちの愉快な集落が三つくらいあるし、私たちと下に行けば――何があるんだろ?」
「オリ様! もう少し下ると私の故郷がありますよ、わん!」
「久しぶりにワン付けたね。興奮してる?」
「そこそこです!」
ミオは身振り手振りで自分のいた場所について説明する。今まで見てきたどこよりも広大で、そこには上下の激しい崖と滝すらあるらしい。
スライムは滝、という単語に惹かれたようだが、それでもいまいちどうするべきか悩んでいるようだ。
「トゥケロのとこもいいとこだよ。皆いい人だし、戦争止めたしね」
「そうだな。今日中には帰るから、よければ連れていこう」
「きょ、今日? ですか?」
今日、というが、この地下迷宮にはもちろん時間の概念がない。
日付の概念があるはずもなく、オリらのパーティーが言う今日・明日というのは、適当な休み時の後のことである。
長時間の休息を必要とするオリが主観となって決められているため、どれもひどく雑多なタイミングで定められている。しかし最近はその休息も短時間で済ませてしまうため、その概念はさらに曖昧になっていた。
「私が時間。私こそが時間」
オリは胸を張った。前面のシャツの布地が引っぱられ、ポケットにいた妖精は「狭苦しい」と彼女を叱りつけた。
「どうするスラちゃん」
「私、私……」
「恐らく、先行き知れないオリ達と行くよりは、俺と来るほうが安全だろう。だが、来た後まで安全かというと難しいものがある。いつまた戦争が起きるか正直分からないしな。ただ河川が流れているから、住みやすい環境ではあるだろう」
「私たちと来る場合も、正直どうなるかさっぱり分からないけどね。ただミオの故郷は戦争なんてない、本当に安全なとこらしいから、辿り着けたらハッピーハッピーって感じかもね。知らんけど」
トゥケロもオリも、一応ながら真実を告げていた。
正直スライムが来ようと留まろうと、二人にとってはどちらでもいいのである。
「……まあ、ここに居残りするのも大丈夫だよ。住処があるんだから、それが一番かもね。もしかしたらそのうち、岩嫌いが死ぬかもしれないしさ」
スライムは黙ってしまった。
オリはそろそろ先に進むつもりであったので、「そこまでの時間はとれないよ」と声をかけた。
それから、次の階層へと進む前に、ここで食料補充に出かけることにした。
生食にも適した木の実がありそうだと、ミオが植生を見て気付いたからである。オリに何か食べさせたいと思っていて、発見したらしい。ありがたい話だ。
――食料を集めて、しばらくしたらこの場所に戻って来る。その前にどうするか決めておくこと。
スライムははっきり言いつけられ、こっくりと頷いた。
オリは木の実が豊かになる繁みの前に一人立っていた。他の仲間達は別の場所へ偵察に出ている。
オリは無言で、ぽつぽつと木の実を摘んでいく。細長い濃紫の実だ。葡萄にしてはくすんだ色合いをしている。
綺麗かどうか確認し、試しに口に放り込む。瑞々しくさっぱりとした味だった。果物というより野菜に近いだろうか、うっすらとした甘味が口に広がる。
ざらついた食感の分厚い皮をぺっと吐き出して、やたら固い種も吐き出す。
唾液とともに地面に落ちたそれを、オリは踏み潰した。地面にめりこませながら、誰か品種改良とかしないかなぁ、とオリはどこか悲しい気持ちになって考えた。
美味くない。
大して美味くないのだ。
まずいとは言わないが、現代日本の食料事情にずぶずぶに浸ってしまったオリの口内はこんなものじゃ満足できない。
――家に帰りたい。
何度となく感じた、郷愁にしては黒々とした想いがオリの胸内でうずまいた。
美味い食べ物にありつきたい。今もきっと一人で台所に立っているだろう母親の背中が脳裏に浮かぶ。
別に餓えているわけではない。しかし、オリは今まで三食美味しく食事を頂いて生きてきたのだ。だから、食べなくてはいけない。こんな世界に来た今でもきっと、食べ物を口にして、それで生きなければならない。
飲まず食わずに生きるなんて、それはオリの想像する人間ではないのだ。
(ミオとか、皆と会えたことが救いかな。そのおかげで生きてるし。そう考えると、あの少年に掬われたこともそうか)
より劣悪な状況を考えれば、オリはよりプラス思考で、前を向いて行ける。
地球にある見知らぬ外国に、服一丁で放り出されるよりもずいぶんマシではないか!
そのまま放り出されたときの悲惨なイメージトレーニングをしながら、
「はあ」
と、溜息を吐いた、その瞬間だった。
後頭部を叩き割るような衝撃がオリを襲った。
呻き声もなくその場に崩れ落ちる。咄嗟に土を掻いて握った。意識はある、感触も分かる、その確認だ。
「ぐっ……そ、いて、」
死ぬほど痛いし目も回るが、死ぬわけではない。死なない。
私が死ぬはずがない。
オリはそれ以外のものを何も考えずその場で転がりながら立ち上がり、死角向けて握っていた土を撒き散らした。
「えぶっ」
「そこかてめー」
身体をふらふら揺らしながらも、咄嗟に石剣を構えたのは最早本能だった。この武器は既にオリのもう一本の腕のようになっていた。
根性で力の入らない足を踏ん張らせて、視界がぶれて定まらない目をひん剥けば、なんとか焦点があってくれた。
そこにいたのは、見知らぬ奴だった。首だけ見れば狼に似ているだろうか。それにしては面が細く狐に見えなくもない。ただ毛色は漆黒だ。どう作っているのか、やたら背景の森に馴染む衣装を着ているというのに、その黒い顔面のせいで台無しだ。
手に持っているのは、なんだろう、鉄球が先端についたような鈍器だった。あれでオリを殴ったらしい。
なるほど。死ぬな。
(いや殺す気できたのか。なるほどー)
追剥ぎか? まさか体目当てではあるまい、地下迷宮の奴らはどれも個体が強靭(かつ長命)であるため子孫を残す必要が薄く、そもそもの性欲がゼロに近い。――ということを、オリは最近仲間たちから聞いていた。
だから『森』での結婚はあれほどにめでたく、そして怪しくもあったのだ。
(通り魔かな)
「なんで生きてんだ、人間じゃねーのかよ! ふっざけんな!」
狼は吠えた。
この声はどこかで聞いたことがある気もするが、しかしそれは既に大した問題ではないのだ。
「ふざけてるのはそっちだろ」
オリは憎々しげに歯噛みする。
ぎろりと眼球を剥き、ゆらゆらと不気味に揺れる体――傍から見れば、彼女こそが底知れぬ迷宮に暮らす幽鬼に見えただろう。
本人が己をどう評そうとも。
「お前は私の最後の牙城を崩した」
「は?」
「この世界はまだマシだって、服一丁で治安の悪い外国に放り込まれたよりはいい状況だって。ホンジュラスでそんなんされたら五秒で死ぬ。でも私はほら、ここでは、この世界では助かってるって。生きてるって。救われてるって。――そう思って耐えた、今さっきの私をぶち壊したんだよぉ!!!」
オリは飛びかかった。迎え撃たず、咄嗟に避けようとしたソイツの側頭部を、石剣で思い切り打ちのめした。
先ほどのオリと同じだ、どさりと倒れる。
そうだ、同じ目に遭わせてやる。
「ふっざけんなあああ!!! なんっで! 私が! こんな目にッッ!! こんな! 所に!! クソがッ! オラァ! なんっもいいとこねーじゃねーか異世界! 死ね異世界! 迷宮ゴラァ! 死ねよぁっ死にさらせっ!!」
ひたすら滅多打ちにした。
顔面急所問わず、石剣を握り締めたまま雨霰のように殴った。
暴力による鬱憤の発散は、より濃厚な狂気をその腸に呼び込む。
逃げようのないほど重苦しいそれは、オリがどれだけ息を荒げようとも吐き出されなかった。
「先生!!」
声が上がったのは、オリの背後からだった。




